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アリステア・マクラウドと『冬の犬』に出会えた。

産まれて、生きて、手渡して、死んでいく物語。ぼくはそんな本を探していた。

10数年前、業界の端っこにいたぼくの経験と記憶のお話。
書店の営業日が年間364日あるとしたら、各出版社の新刊も364日届けられる。
中堅書店チェーンの本店だと、毎朝300~400アイテムくらいはやってくる。それも一冊ずつ来るわけではない。
そうすると山のように積まれた在庫の中から古い順だったり、売れ行きが芳しくないものを返品して新刊を並べるスペースを確保することになる。
書店員には分かっている。
売れ行きとその本の価値は必ずしもシンクロしないこと。
一度も、一ページも開かれていなくても、誰かの愛読書になったかもしれない本であっても、返品されていくものは容赦なく返品されていくことを。

伸びない販売部数は新刊の出版点数で補うことになり、内容の薄まった本が売り場を占有する。ますます本との出会いが難しくなっていく。
1996年に2兆6564億円だった売上が2020年に1兆6168億円と約1兆円強の減少。
それが今の出版業界。
知人の外資系コンサルタントが「この規模だともう“産業”とは呼べないなぁ」と。

ぼくは、毎日のように書評家や作家、その道の専門家が取り上げた解説をランダムに読めるサイトを幾つか覗いている。
気になった本があると図書館のインターネットサービスで検索してリクエストしたり、本屋さん巡りに出かける。
当然、全部が信頼にたる書評じゃないけど、少なくとも手掛かりにはなってくれる。
最近だと、『少年が来る』(ハン・ガン著)、『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル著)、『常世の花』(若松英輔著)、『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(市川真人著)『死を生きた人びと』(小堀鷗一郎著)なんかはそうやって手にした。
どれも独力では出会えていない類の本だ。

『冬の犬』の表紙には、深い森を背に雪の中に立つ少年と犬が描かれている。
表四には作家の小さなポートレート写真が載っている。
ハンチングを被り、ジャケットにネクタイ姿でおだやかにこちらを見ている初老の男は、スコットランド高地を追われカナダに移民となってたどり着いたケルト民族の末裔。
両親の故郷ケープ・ブレトン島で育ち、学資を稼ぐために炭鉱や、危険と隣り合わせの豊かな漁場、深い森での重労働を厭わず、博士号を取り、大学で英文学を教える教師となったとある。
ぼくはこういう男に魅かれる癖がある。勤勉、忍耐、継続、ぼくには無い気質だから。

彼の小説の舞台は神々しいほどに荒らしい故郷の島。
ぼくが目撃するのは、光を放ち降り積もる雪、海岸を埋め尽くす流氷、ケルト民族として産まれ、生き、死んでいった先祖たちと、バトンを手渡され死を生き抜く人間たち、かたわらの犬、馬、家畜、あらん限りの精気を迸らせて疾走するいのちの群れだ。

第一編「すべてのものに季節がある」は全九ページと五行。
クリスマス休暇に帰ってくる兄を、両親も兄弟たちも心待ちにしている様子を三女に追想というかたちで語らせる。

作家は、島の西海岸にある彼らの農場のきびしい冬を、控えめなユーモアを交えてこう書いている。

<ポーチに出して忘れたバケツの水は朝には凍っていて、ハンマーで氷を割らなくてはならない。母が干した洗濯物は瞬く間に凍りつき、解体されたロボットのような恰好で軋みながら揺れている。
脚が硬直してギーギー音を立てているズボン、手を広げたまま曲がらないシャツやセーター。
朝、私たちは寒い二階の寝室から台所に駆けおりて、暖かいストーブのそばで着替えを終える。>

働き者の母親。騒々しいが仲の良い兄弟たち。島の日々を誠実に生きている家族の姿が見えてくる。
幼い子供はみんなふわふわの羽毛に覆われて育っていく。そしてある時知らぬ間に忍び寄ってきた大人という荒れ野に放り込まれる。
それは、サンタクロースの存在をはっきりと終わらせる日がやって来るのと同じだと三女は語る。

十二月二十三日の朝、厳冬に交通機関を奪われた兄は、故郷へ帰る仲間たちとおんぼろの中古車を駆って帰ってきた。

<母が唇に手を当て、「まあ、よかった」とつぶやく。父は椅子からよろよろと立ち上がり、窓をのぞきにいく。両親が待ちわびていた息子、弟と妹たちの人気の的である兄が、ついに帰ってきた。>

兄を驚かしたのは、三月以来会っていなかった父親の姿。まだ四十代なのに。

九ページと五行である。
これ以上詳細に語れば一話全部読んだことになりそうなので最後に。

年少の兄弟たちのプレゼントには“サンタクロースより”と書いてある。
しかし、語り手の三女のプレゼントにはない。
彼女が大人の世界の仲間入りをした瞬間だった。

<「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。私は父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」>

これが最後のフレーズ。
想像してみて欲しい。

『冬の犬』の原作はカナダで出版された短篇集『Island』
バンクーバー空港の売店で『Island』を購入したのは池澤夏樹さん
“本の方が「ぼくを読んでください」と言っているようだった”と。
すっかり『Island』と著者アリステア・マクラウドを気に入った池澤さんが新潮社に強く推薦してくれたお蔭で、ぼくは生涯の愛読書を手に入れることができた。感謝だ。

『Island』『灰色の輝く贈り物』『冬の犬』に分冊されて出版されている。
冬の犬』を読了し、新潮クレストブックの並びに差しておこうとしたらあったのだ。
未読のままの『灰色の輝く贈り物』

アリステア・マクラウド先生は2014年4月に亡くなられた。

合掌。

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