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【横浜】第1回 異国情緒あふれる理由~江戸時代、開国の歴史~

久しぶりです。年が明け、仕事も本格的に始まり、なかなか更新をできていませんでしたが、自分のペースでぼちぼちやっていきたいと思います。
前回は、長崎の歴史を見ていきましたね。少し、固めの内容が多くなってしまい、歴史を楽しく、分かりやすく伝えることの難しさを痛感しています(普段の授業でもそうです…)


観光地紹介、今回は「横浜」です。神奈川にあるこの都市には、「おしゃれ!」「大人っぽい!」などの印象があるのではないかと思います。
「横浜」の紹介の第1回は、江戸時代の末期、幕末の歴史を見ていこうと思います。よろしくお願いします。

横浜の有名な観光地の1つに、「横浜元町商店街」(横浜ショッピングストリート)があります。「元町」と言えば、中華街なども近くにあり、交通アクセス抜群の場所です。

この商店街は、ヨーロッパのような外観が特徴で、異国情緒あふれるとても上品な雰囲気があります。少しお高めのお店が並んでいますので、ウィンドウショッピングをするもよし、写真をパシャパシャ撮ってインスタにあげるもよし、そうだカフェやレストランもたくさんあります。一度は行ってみたい場所です。

実はこの「元町」、江戸時代に長い鎖国が続いたあと、開港当時に外国人の居留地として多くの店が集まり、栄えていった街なのです。


ではこれから、幕府の開国までの流れを見ていこうと思います。


時は江戸時代、国内の状況の前に、海外の様子を確認します。イギリスを始めとした欧米で「産業革命」が行われたのち、原料の供給地と製品の市場を求めてアジアへの進出が進んでいきました。その中でもアメリカは、当時、北大西洋で行っていた捕鯨船の食料・薪水などの補給地や広東とカリフォルニアの航路を結ぶ中継基地を求めていました。

そこで、白羽の矢が立ったのが日本です。

アメリカは、ビッドルを派遣して開国を迫りましたが、江戸幕府は拒絶します。当然ですよね、これまで200年以上鎖国を続けてきたのですから…


そこでアメリカ大統領フィルモアは強硬な手段に出ます。「ペリー」を「東インド艦隊司令長官」に任命し、日本へ派遣します。1853年、ペリーは4隻の軍艦を率いて浦賀へ来航します。この軍艦は、見た目やその恐ろしさを込めて「黒船」と呼ばれます。ペリーはフィルモアの国書の受理と開国を要求します。

当時、幕府を動かしていたのは老中首座の「阿部正弘」です。幕府は、翌年に返書を与えることを約束して、ペリーに退去してもらいます。

これ以前に、オランダなども幕府に開国を要求していたので、全く心の準備ができていなかったわけではありませんが、実際に軍艦を率いてペリーがやってきたことは幕府に衝撃を与えたと思います。幕府は、1年後に向けて、様々な対策を行うことになります。


約束の1年後になりました。1854年1月、ペリーは次は7隻の軍艦を率いてやってきます。この時は、浦賀だけでなく、神奈川沖まで進出しました。ペリーの圧力に屈した幕府は、3月に「日米和親条約」を結びます。この条約は、締結地として選ばれた場所にちなんで、「神奈川条約」とも呼ばれます。そうです、この条約は神奈川(横浜)で結ばれたのです。この条約で、幕府は下田と箱館の2港を開港し、薪水給与を約束します。


話は少し脱線します。この条約締結に向けて、2月には30人のアメリカ人が横浜に上陸しました。横浜の地に外国人が上陸した最初です。その後も、この地で条約の交渉が進められますが、ペリー自身も仕事を離れて横浜を散策し、地元の人々から暖かい接待を受けたと伝えられています。



では、話を戻します。日米和親条約は下田・箱館を開港こそしましたが、まだ貿易が行われる状態ではありません。アメリカは、下田に総領事を置き、「ハリス」を派遣しました。これ以降、このハリスによって、貿易を行うための条約を結ぶ交渉が進められていきます。

アメリカによって、鎖国状態という日本の城の堀が徐々に埋められていくようなイメージでしょうか…。ハリスは、1856年に通商条約の締結を要求します。では誰が、それに対応するのか。

少し、国内の政治を整理します。

日米和親条約の時、政治の中枢であった阿部正弘は退き、大老の堀田正睦が中心となります。しかし、この人物と対立したのが、あの井伊直弼です。井伊は、将軍の跡継ぎ問題などともからめ、政治の中心人物となります。そして、この井伊が、勅許が得られないまま、「日米和親条約」を結びます

この条約のポイントは2点です。1点目は、下田と箱館に加えて、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫が開港されたことです。日米和親条約の交渉・締結地だった横浜も、開港されることとなります。そういった点で考えると、この横浜というちは、外国人の受け入れに関して比較的柔軟な土地だったと言えるのではないでしょうか。

ポイントの2点目は、「関税自主権を失ったこと」と「外国人に治外法権を認めたこと」です。関税自主権は、外国の安価な製品に対して税をかけ国内産業を守るために大切なものですが、それを幕府は失いました。また、治外法権とは外国人が日本で犯罪をしても、外国の裁判でしか裁くことができないというものです。これが、「不平等条約」と言われる理由です。

2点目の日本にとって不利な条件は、その後も日本を苦しめ、多くの日本人がこの条件の解消に向けてのちの時代に奔走することとなります。


ここまでが、幕府の開国の歴史です。


「横浜」という地は、開国前から多くの外国人が訪れていました。開国後も、発展することとなります。やはり、歴史的な経緯があることによって、現代においても異国の雰囲気を持ち、どこか大人びた雰囲気があるのではないかと思います。このようなことに気づけるのが、歴史を学ぶ楽しさを一つではないかと思います。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。


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