異語り 036 入学式

コトガタリ 036 ニュウガクシキ

小学校低学年の記憶はほとんどが断片的でおぼろげなものばかりだ。
けれどもなぜか入学式の記憶だけは鮮明に覚えている。

その日は珍しく父もいて、私は朝からはしゃいでいた。
新しいピンクのワンピースに白いボレロを着て、ピカピカの真っ赤なランドセルを背負って小学校へ行った。

教室の机には自分の名前が書いてあるシールが貼ってあり、新品の教科書が積んである。
6年生のお兄さんお姉さんが小さな花のついたリボンを胸に付けてくれて、みんなで体育館に移動した。

さすがに校長先生のお話は覚えていないけれども、隣に立って見守ってくれていたお姉さんのことはよく覚えている。

「緊張してない? 大丈夫?」
「うん」
「トイレに行きたくなったら教えてね」
「うん」
「学校楽しみ?」
「うん」

他の6年生はもういなかったけれど、そのお姉さんだけはずっとそばでニコニコと話しかけてくれていた。
人見知りで緊張しいな私は、その笑顔に救われるような気持ちだった。

教室に戻ると、それぞれの両親も大勢いて超過密状態。
あたらしい教科書や道具の確認、配られる大量のプリント、それから始まる先生のお話。

何もかもが初めてで目新しくて、新一年生は皆あちこち興味が移りまくり教室内はとても賑やかだった。

この時にはお手伝いにまた6年生のお兄さんお姉さんが4人ほど来てくれていた。
プリントをまとめたり、教科書をランドセルに詰めたりするのを手伝ってくれている。
ずっとついててくれたお姉さんは、狭い机と机の間をスイスイと行き来しながら、困っていそうな子を覗き込んだりしている。
席の後ろを通ったり、他の6年生とぶつかりそうになってもスルリとかわして教室中を移動していた。

緊張の時間が長く続いたせいか、私は少しとうとうとしかかっていた。
耳元でお姉さんの声がした。
「ねぇ、見てごらん」
顔を上げると、お姉さんが運動場を指差していた。つられるままに目を移すと、何人かの子供が走り回って遊んでいる。
「楽しそうでしょ」
「うん」
「一緒に遊ぼうか」
そうささやかれたが、まだ先生のお話は終わっていない。
「でも」
「大丈夫、ほら行こう」
腕をぐいっと引っ張られた。

「痛い」
思わず大きな声が出た。
クラス中の視線が自分に注がれ、顔が赤くなるのがわかる。

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
すぐに先生がそばに来てくれた。
「……大丈夫です」

お姉さんはもう教室の中にはいなかった。


やっと帰りの挨拶を済ませ、皆がザワザワと帰り支度を始めると
「ねえ、遊ぼう」
お姉さんの声がした。
キョロキョロと辺りを見回すと、窓の外から手招いている。

「あのね……」
これからおじいちゃん達の家に行くから。
と伝えようと思って口を開くと、お姉さんの顔つきが変わった。

ただ影が差しただけだったのかもしれないけれど
その時の自分には怒っているような、ひどく怖い顔に見えた。
慌てて父と母の方へ駆け寄った。

恐る恐る振り返ると、お姉さんはいなくなっていた。
その奥の運動場で遊んでいた子供たちの姿も見えなくなっていた。


「ねぇ、運動場で遊んでから帰ってもいい?」
「今日はお洋服汚れちゃうからまた今度な、明日から好きなだけ遊べるから」
本当は遊ぶ気なんかなっかったくせに、ちょっと悪いことをした気がしてそう聞いてみた。
もちろん断られてホッとしたのをよく覚えている。

重くなったランドセルは父が担ぎ、母と手を繋いで家に帰った。
翌日からしばらく6年生がお世話に来てくれていたが、あのお姉さんには二度と会わなかった気がする。


記憶が深く刻まれる要因は、臭いなどの複合的な印象付けがされた記憶や、大きなダメージ(心身のどちらでもあり)を負った時などの危機回避用メモリー、的なものが優先されるらしい。
だから楽しい記憶よりもつらかったり、悲しかったりしたことの方が長く覚えているそうだ。

もちろん小学校時代には楽しかった思い出もたくさんあったはず。
なのに、私の中で小学校で一番はっきりしている記憶はこの入学式の思い出だ。
匂いもおぼえていない。
怪我もしていない。
影が差したお姉さんの表情も思い出せないけども……

ひょっとして何か危機的状況だったのだろうか?

と、ふと思い返すことがある。

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