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古典的名著はラスボスみたいなもの

人間失格、坊っちゃん、罪と罰。
有名人がすすめるの本といえば、大概こういった古典的名著である。
「私の人生を変えた本」などという特集で、岩波文庫の本が1冊あるだけで、急にそれっぽく見える。
ただ、普段あまり読書をしない人が、これを真に受けて「よし、この本が面白いんだな。読むぞー!」というのは危険である。
というのも、古典的名著はラスボスみたいなものだからだ。

私は書店員として働いているが、そんな私でも古典的名著は難しく感じる。
言い回しが独特だし、時代背景も違う。
「面白い」にたどり着くまでに乗り越えなきゃいけない壁が多いのだ。
だから普段あまり読書をしない人がいきなり古典的名著に取り組むと高確率で挫折してしまう。
そして、「面白いと言われている本を面白いと感じなかったということは、読書自体がつまらないものなんだな」と感じてしまうのだ。

これは本当にもったいないことだと思う。
出版業界からしても、個人的な読書体験からしても。
そこで役立つのが「古典的名著はラスボス」という意識である。
こういった意識があれば、「まあ、読書なんて始めたばっかだし、こんな難しそうな本、読めなくても仕方ないよな。そりゃ木の棒でラスボスは倒せないわ。違う本読も」と挫折感が軽減され、次の本を手に取れる。

だいたい、有名人がすすめる古典的名著も「本当に面白い」と思ってすすめているかどうか怪しいもので。
そりゃ「人生を変えた1冊」なんて聞かれたら、難しそうな本を挙げたくなるのが人間の性である。
これは共通の趣味を持ってる友達に「一番好きな作品は?」と聞かれたときに、「うーん、一番って難しいなあ。決められない(笑)」と返すあれと根底は同じである。
例えば私はマンガも好きなのだが、今は呪術廻戦にハマっている。
ただ、そんな質問をされたものなら上記の受け答えをした上で、「でもやっぱり『ねじ式』には衝撃をうけたなあ」とマニア受けする作品を答えてしまうかもしれない。
何が言いたいかというと、人がおすすめする作品なんて色々なバイアスがかかったもので、それを面白いと思わなくてもまったく問題はないということである。

ここまで古典的名著をこきおろすように書いてきたが、だからといって「古典的名著なんて必要ない」と言いたいわけではない。
私が読書を好きな理由の一つにその奥深さがある。
読んでも読んでも深淵にはたどり着かない。
その深淵を支えているのが古典的名著だと思う。
つまり古典的名著があるから、安心して本を読み進められるのだ。

2022年夏、私は遅ればせながら「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」を楽しんでプレイしていた。
私はストーリーを楽しむタイプで、図鑑を埋めたり祠をクリアしたりということにはあまり関心がなかった。
そんな私がいよいよガノンドルフと闘うときがきた。
もはやテンションは最高潮。「俺が世界を救うんだ」と子どもの頃は当たり前のように感じていた感覚が15年ぶりに戻ってきた。
そうして俺は激闘の末にガノンドルフを討ち取り、世界を救った。
だがそこにあったのは、達成感よりも「終わってしまった」という寂しさだった。

私は読書なら死ぬまで楽しめるんじゃないかと期待している。
ラスボスの古典的名著が手強い上に、あまりにもたくさんいるから。
歳をとっていくなかで、そんなラスボス達を一体一体倒していきたい。
そして私が老人になり病床に伏せたときに、「これがワシの最後の闘いじゃ」と気力を尽くし、辞書のような分厚い本を1ページずつゆっくりと読めたらと思う。

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