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書店員だけど接客の正解がわからない

私は小さな本屋で働いている。
個人店の小さな本屋なので、お客さんとの距離が近い。
せっかくお客さんとの距離が近いんだから、会計の際に小粋な一言でも言って、お客さんにまた来てもらいたいと思う。

例えば、お客さんの買った本を見て「私もこの本好きなんですよ」とか言えば、話が弾むかもしれない。
ただ実際にやってみると、笑顔で返してくれる人もいたが、苦笑いをする人や無視する人もおり、落ち込んでしまった。
「話しかけ方がまずかったかな・・・」などお客さんが帰ってから反省会をすることもしばしば。

本屋は人の思想を扱う店である。
選ぶ本によって、その人の内面がわかってしまうときもある。
そんな本屋だからこそ、レジで会話なんてしたくないという人も多いのだろう。

さらにいうと、これは本屋に限った問題ではないのだが、顔を覚えられたらもうその店には行かない、という人も多いように感じる。
例えばツイッターでは、コンビニで「いつもありがとうございます」と言われらその店にはもう行かない、というような投稿をよく見る。
顔を覚えられることで、客の側も店員のことを意識せざるをえず、気楽に買い物ができなくなると感じてしまうのだ。

これについては、『うしろめたさの人類学』という本の内容が面白い。
この本では、「交換」と「贈与」を対比させ、「交換」からは感情が差し引かれることを指摘している。

ぼくらでも、店で商品を買うような交換の場面で、店員とのモノのやりとりになんらかの思いや感情が「生じない」のではない。それは、そこから「差し引かれている」。
ふとわきでるさまざまな思いや感情は、交換のモードをとおして不適切なものとして処理され、「なかったこと」にされる。

『うしろめたさの人類学』

コンビニは、商品とお金の「交換」の場の最たるものだと思う。
接客のマニュアルが決められており、そのやりとりに思いや感情を挟む余地はない。
そして、客はその「交換の気楽さ」を求めて、コンビニに通う。
そんな中で、店員から「いつもありがとうございます」なんて言われると、うっとうしく感じてしまう人もいるというわけだ。

そうして私の店を見てみると、小さな個人店ということで、コンビニに比べて思いや感情が生じやすく、会話が生まれることもある。
ただ、お店への価値観は人それぞれで、たとえ個人店での買い物でも感情を挟まない「交換」を求めてる人もいる。
そんな人に対して、こちらが感情をこめて話しかけると、迷惑がられてしまう。

そんな感じで人類学の本を引用するほど接客に悩む日々を過ごしていたのだが、ある日私がたどり着いたのが「ムリをしない」という境地である。
ムリをして話しかけても、どうしてもぎこちなくなってしまうし、今まで見てきたように相手からしたら話さない接客の方がありがたい場合もある。

そんなことなら、接客をするなかで本当に話したいときに話せばいい。
「交換」の場でお客さんに話しかけるのはハードルが高い。
でも本当に話したいことなら、そのハードルを越えられ、かつ不自然でもなくなるだろう。
だから本当に話したいときだけ、「交換」の域を超えて話せばいいのだ。

そんなふうに割り切ったら、仕事中でも素に近い自分でいられるようになった。
個人店の強みはマニュアルにない接客ができることだと思う。
それなのに私は「お客さんと話さなければいけない」というマニュアルを作ってしまっていたのかもしれない。

レジから窓の外を眺め、そんなことを考える。
そうして今日も私はお客さんが来るのを待っている。

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