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本を読むのはめんどくさい

本を読むのはめんどくさい。

ぶっちゃけ、本が好きで書店員になった私でもそう思う。
新しい本を読み始めるときは、「よいしょ」と重い腰を上げるような心持ちが必要になってくる。

どうして本を読むのがめんどくさいのか。
それは、よく言われるように本が能動的なメディアだからだと思う。
本は自分で文字を追わないと読めない。
当たり前に思うかもしれないが、それはたとえばYouTubeと比較するとわかりやすい。

YouTubeはひたすらに受動的なメディアだ。
動画の再生ボタンを押せば、あとは眺めているだけで楽しめる。
私は食器洗いの際にYouTubeを楽しむことがままある。
食器洗いのしんどさとYouTubeの楽しさが相殺し、苦手な食器洗いもなんとかこなせるというわけだ。

でもこれが本だとこうはいかない。 本を読みながら食器洗いはできない。
本を読むのは能動的な行為で、その際中は他のことができなくなるほど意識を集中させなければならない。
その集中状態までに持っていくまでのハードルの高さが、読書のめんどくささの原因ではないだろうか。

ただし、めんどくさいからといって悪いわけではない。
むしろ、めんどくさいからこそ私は本を読んでいる。
というのも、能動的に文章と触れ合うことで、その文章が自身の血肉になるからだ。

冒頭でも言ったように、私は現在、書店員として働いている。
書店員というのは忙しいわりに給料が低いことで有名で、現に私もアルバイトという身分である。
そんな中で、世間一般の価値観に従っていると、息のできない水の中に閉じ込められているような心持ちになる。

たとえば、「安定した給料をもらえる正社員で定年まで勤めあげるのがいい」という価値観を自分に当てはめると、どうしようもなくしんどい。
死んだ目で同級生のキラキラしたFacebookを見て、乾いた笑いとともにイイネを押すという鬱屈とした生活を送ることになる。

そんな私が頼るものといったら、もう本しかないわけである。
本っていうのはそりゃもう色んな人が色んな本を出しているわけで。
その中には今の自分の状況を肯定してくれる本がだいたいある。

「アルバイトで給料が少なくても、そういう生き方もあるよ」と言ってくれる本があるのだ。
現に私はそういう本を貪り読んでいる。
貪り読んで血肉にし、自分の哲学を編んでいる。

たとえば『古くてあたらしい仕事』という本。

夏葉社代表の島田潤一郎さんが、一人で出版社を立ち上げるまでの心のありようを書いた本で、その中にこんな一節がある。

ぼくの頭のなかには、いつも近所の中華料理屋さんの仕事があった。
その店は実家からあるいて五分の場所にあり、ぼくは子どものころから、その店のラーメンや餃子を食べて育った。
彼らは家族四人で店を回し、汗を流しながら厨房で調理をし、岡持ち付きのカブで近所をぐるぐると走りまわっていた。
彼らはいつも笑顔で、ぼくと目が合うと必ず「こんにちは」といった。

ぼくは彼らの働きぶりが好きだったし、彼らのように仕事をしてみたかった。
つまり、自分の仕事をデスクワークではなく、交渉事でもなく、肉体労働のようなものに近づけてみたかった。

引用元:『古くてあたらしい仕事』

当時、仕事を「コスパ」という概念だけで見ていた自分にとって、この一節には体の芯を揺さぶられるような衝撃を受けた。
こんな働き方をしていいんだと思えた。
私が書店員という働き方を選んだのは、この一節の影響が間違いなくある。
そう言い切れるほどの体験だった。

本を読むのはめんどくさい。
でもめんどくさいからこそ本を読む。
この正解のない世界で、それでも正解があるように言われる世界で、自分で編んだ哲学に従って生きていくために。

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