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【短編小説】紫陽花

日が長くなり、夏の気配の漂う水無月のある日の放課後のこと。
訪れた寺院の紫陽花はまさに見頃で、本堂に続く遊歩道には視界いっぱいを埋め尽くす程の数が咲いていた。

僕は毎年、この寺院の紫陽花が咲くのを楽しみにしていた。
ばあちゃんに「紫陽花は育てるのが簡単な上に手に入れやすいから、この時期に手向けるにはちょうど良い花なんだよ」と教えてもらったからだ。
おまけにこんなに美しいのだから、悪いところがまるで見つからない。
ここの寺院はあまり人気がなく、時間帯によってはこの光景を独り占めできる。

今回も、その美しさにうっとりしていた。
しかし、本堂へ歩みを進める最中、一角だけ異様な雰囲気を放っていることに気が付いた。


ピンク色の紫陽花が咲いている。
澄んだ青や神秘的な紫の花が、この寺院の雰囲気と相まって心を落ち着かせてくれるのに。

「あれ、東野さんのとこの坊かい?大きくなったねぇ」

この寺院の住職だ。
何度か顔を合わせたことはあったが、声をかけられたのは数年ぶりだ。

「ねえ、なんで、こんな色になったの?」

僕は暖色の紫陽花たちを指さして言った。
すると住職は、よくぞ聞いてくれた!と言わんばかりに腰に手を当てた。

「これはねぇ、おじさんが手をかけたからだよ!」

住職曰く、紫陽花の色を変えるには、土壌の環境が重要らしい。
実は何年も前から、この寺院に「湿っぽくて不気味」という声が届いており、訪れる人たちの気分が晴れるような工夫の1つとして、赤やピンクの紫陽花を咲かせることを考えていたそうだ。
専用の肥料を巻いたり、アルミニウムの少ない土と入れ替えたりを少しずつやって、ようやくこの一角だけ成功したのだとか。

「いやぁ、大変だったんだよ。おじさんが調べた限りではもっと簡単にできそうだったんだよね。それがこう、成功したのが此処だけとは…」

後で知ったが、この辺りは雨が多い地域なので、酸性土壌であることが普通らしい。
酸性の土壌では、土壌中のアルミニウムが紫陽花のアントシアニンと結合しやすいため、通常は青色になる。
ピンク色にするには、アルミニウムが結合しにくい環境を作り、アントシアニン本来の色味が出なければならない。


何故か僕は、住職の話を聞きながら出て行った母親のことを思い出していた。
母はよく、膝立ちの状態で僕に向き合い、僕の両肩に手を置いて、泣いていた。

「なんで、なんであんたは、こんなことも出来ないの?ねえ?」

母のその言葉が僕の脳内で響いた時、住職の瞳の奥に狂気が宿っているように思えた。
僕は住職に「さようなら」とだけ言って、急に用事を思い出したかのように慌てて振り返り、駆け出した。



紫陽花の色を変えるには、土壌の環境が重要らしい。
生まれつき運命は決まっているようにも思えるが、実は人の手によってその行先を変えることも出来る。

住職には申し訳ないが、僕はやっぱり青や紫の紫陽花の方が好きだ。

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