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何でもない雑記を書く日常を大切にしている【タイ移住日記2024/6/14-24】

結婚式で家族でハワイに行った話や、その前に友人に会うためにバンコクに行った話など書きたい話がたくさんあるものの、長編になりそうで全く手が伸びない。それなのに、本を読みながらだったり、単純作業の仕事中に思いついたことをnotionに書き留めたり、こうやって公に公開されてしまうnoteで書いている。

タイの大学の前期が始まり、街には再び学生があふれ出し、家の近くの通りはいつも混みあっている。そしてカフェに入ると、大学生が談笑していたり、パソコンを開いて勉強したりしている。そのすき間に入るように私のようなノマド的働き方をしている外国人が本を読んだり、高速タイピングでメールを作ったり、記事を書いたりしている(のだろう)。大きなヘッドフォンをしている人は、トイレに行くときにちらっと見るとだいたい動画編集をしている。チェンマイはそんな街である。

私は先月、大学付属の語学学習機関での1年間のプログラム(先生が著名なライター・教師だそうで他の仕事の都合やタイの暦上の祝日の関係で、詰め込み授業を行い、実際には10カ月で終了した)を修了した。タイ語の基本の「K」ぐらいはわかるようになた。「キ(ki)」までは達していないと思っている。でも街中にあるタイ語はある程度読むことはできるようになったし、日常で使う言葉はだいたいタイ語だけで通じている。わからない単語がまだまだ多いのでその都度調べているが、タイ語の構造はある程度理解できるようになった(はずだ)。

平日のうち3日を占めていたタイ語の授業が終わり、仕事だけをする日常が訪れた。あ、大学院の研究もあるが、半分仕事のようなものである。毎日何かしら読んで、書いて、の繰り返し。でもその仕入れた情報が直接全部使われるわけもなく、効率性重視、市場原理主義者のような人から見ると、「生産性のない日々を過ごしているだろう!めっ!」と言われるような気がするほど、インプットの量に対してアウトプットの量が見合っていない。9:1ぐらいだろう。文章を書く仕事、人に情報を伝える仕事をしている人はそんなもんである。映像も一緒かな。全部伝えたいけど、伝わらないから捨象せざるを得ないもどかしさ。あんなに長い文章を読んだのに、もったいない感じがしてしまう。でもそんなものなのだ。逆にここのnoteでは文脈もないままに書き綴っていることも多い。1回の投稿が短編集だと思っていただけると嬉しいです。でもたまに名作といわれるような本読んでてもそんなことあるよね?回収されない伏線とかよくある。

こうやって書き殴るように、そして手癖のように文章を書いている人は校正・校閲もされていないし、粗削りすぎるという人もいるが、私は、常にraw dataを作っている感覚である。もちろん自分で本を作ったりするのであれば、まとめたりするだろうけど。noteのような場所は話がまとまりすぎているとわざとらしさが出てしまって、臨場感がなく、ごくまれに嘘っぽさが付きまとう。私はそれは自分の文章からは絶対に締め出したいと考えている要素なので、手と頭が動くままに書いている。どの文章も意図が最初から分かってしまっているものは、読み終わった後に発見がないことの方が多いので、そういったものはさぁーっと目を通して終わりにするようにしている。

こうやってのらりくらりと日常を描きながら前に進まない文章を書くことが至福のひと時なのである。





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