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いつまでたっても子供、中身は大人【タイ移住日記2024/6/10-13】

実家に帰ってくると、つかれる。

2週間ほど一時帰国で滞在することになっており、1週間が経過したが、もうそれだけで十分だ。早くわが家に戻りたい。

ただ、友人との予定は外せないのでまだ戻れない。家で仕事をしている時間が長く、両親は仕事もリモートでほとんど家にいるので接する時間が長い。

家族のことが嫌いだというわけではないが、いつまでたっても子供は子供という考え方なので、例えば、最近ものが壊れたというのでいろいろ手伝ってあげても信用してもらえず、高い見積もり屋さんの判断だけを聞いてそうかあ、まあいいやあと言って、一番身近な家族であって、一番親身に聞いている私の言葉は耳を通過していくようだ。

私の実家は本当に「子どもは子ども」という考え方が強い。
最近結婚してお金がないので手伝ってもらったり、お金を出してもらったりしているが、その金銭関係の弱さから私は対等な立場に立てないのかと思っていたが、そうではないことに最近気づいた。というか、改めて強く認識した。

私の実家はそういう感じなので私は実家から通っていた高校時代まで彼女は作らなかった。家には部活、塾が終わったら早く帰ってこいという雰囲気を醸し出していた。言われてはないけど、子はそれを感じ取るものなのだ。私はある意味高校までは、レールを歩かされてきた(親の希望に合うように上手に歩めてきた)結果、自分で何かをしようという没個性的な人間に育った。とりあえず目の前の勉強に精を出していた。妻が見るこの原稿でこんなことを書いたら「お高い夕食おごり罰ゲーム」になってしまうかもしれないが、私は片手には収まらない(小学校高学年以降の記憶にある限りは)女性の勇気ある申し出をお断りせざるを得なかった心理状況にあったので、今になって彼女らには申し訳ないことをしたなと、今この文章を書きながらふと思ったのだ。正直、全部受けたかったけど、頭に家族がよぎり私にはそのとき一歩踏み出すことができなかったのだ。

そして勉強や自分の将来を意識的に考えられるようになった高校3年生のころ、そんな呪縛から解き放たれたいがために、そして学びたいこともあり、その条件があてはまり、関西の名門大学を志望した。でも、高校2年生の夏ごろに受けた模試の結果は芳しくなく、変更せざるを得ない雰囲気になってしまった。今こんなことを言ったら両親は「お前の選択だろ」というかもしれないが、私のことなので私が一番覚えている。そういう嫌な記憶は忘れたくても忘れられない。この文章が世の中に飛び出したあとそれをしっかりと既成事実にしたいので、書いている。私がエッセイを書くのは、見た目は穏やかでよい家族で育ったが、私の心の中はそんなにシンプルなものではなかったということを再確認するために書いているのだと思う。逆にこれが世に出てしまったら、私が作家として有名になり親が私の作品を読むようになったらもしかしたら私は家を破門されるかもしれない。でも私は生きるために書いている。お金を稼ぐために、積極的には書きたいというわけではないSEO記事を書き、お金は稼げないけれど、自分の心を救ってくれるかもしれない文章を書き続けている。

大学受験は結局東京の有名大学を一通り受けたが大敗。正直その高校2年生で諦めさせられたのが大きかったのだと思う。模試の結果はいくら頑張っても変わらず、結局、私は偏差値が落ちもせず、伸びもしなかった。もうくそくらえだと思っていた。

そこで私は「東京でも試験会場あるからここも念のため受験したい、専門も似たようなところだし、教授陣もすごい人たちだし!」と説得し、立命館大学国際関係学部を受けた。その時だけ私は意識的な意思があったと思う。もちろん東京の大学も自分で選んでいるが、あまり関心と関係ない教育学部とかも受けていた。(結局今自分のできること、として教育現場にいるが・・正直高校時代には全くそんなことは考えていなかった)結局、東京は全落ちし、意識的に受けた立命館だけ受かった。親に感謝しているのは、東京に残ってほしいという希望だけであんなに受けさせてくれてありがとうということだ。後期試験で枠の狭い中央大学も受けたが、もうその時には立命に行く気満々だったし、やっぱり落ちた。(センター試験もそんなに得点なかったし)

大学に来てから私は自分がこんな人間だったのかと知った。授業はサボらないし、勉強が好きだった。接客業はやっぱり嫌いで、ごはんが食えるというだけで、好きでもない飲食業でアルバイトをしていた。そしてお風呂もないので銭湯のバイトを紹介してもらい、誰よりも早く一番風呂させてもらった
。一番風呂は朝一にくるおじいちゃんたちではなく、私だったんだよ。


中身は大人になって、結局東京に戻ってくることになってしまった。大手なので、関西の希望通るだろうと思っていたが、まさかのコロナ襲来で、実家から通える人は実家から(家賃補助が出せないから)ということになり、彼女(現在の妻)は関西に残ることになったので遠距離恋愛が始まった。(その前からインドネシアに派遣されていたので、遠距離恋愛自体は延長され、多少距離が近づいただけとなった)

会社は休業の補助を国からもらっていたので、通勤は週1,2回しかできなくなった。そして仕事も全くないか、だれも旅行できない中、旅行に行かないのにも関わらず電話してくるいかれた人からかかってくる電話に応対するしかなかったので、会社にいるときも、会社に行かず部屋の中でいるときも私は死んだように生きていた。いかれた電話をしてきた人ももしかしたら同じような状況で耐えられなくなった人たちだったのかもしれないな、と自分に余裕があるときはたまに思いを馳せていた。


私は実家にいるのも嫌だったので、そして今の妻と結婚するうだろうと思っていたので、妻が東京に来れるようになってからすぐに同棲を始めた。住んだ埼玉は事前の評判よりいいところだった。外国人がなんやらかんやら言っているような人たちはただの差別主義者だった。迷惑な外国人なんて見かけず、私が出会ったのは日本語が流暢で、とても謙虚で丁寧なコンビニや本屋、飲食店の店員しか出会わなかった。

先日両家家族だけでハワイ挙式をしてきた。お義父さんの夢だったとのことで結婚してすぐの両家顔合わせですぐにその話で決まった。どちらの家族もとても楽しんでくれたので良かった。母は毎朝朝ドラの流れでつけっぱなしになっているNHKのあさイチの音声を耳に入れながら、ハワイの写真を見ている。androidの機能でおすすめに出てくるのだろう。あそこのあれはよかったと私がパンを食べている横で話しているので、相当楽しかったのだろう。親を喜ばせることが出来てよかった。母は30年前ぐらいの自分の新婚旅行、家族旅行の海外経験をずっと話していたが、英語はできていなかったので私がすべて通訳していた。父はさすが商社マン。日本語発音ながら英文法はしっかりとした英語を話していた。

結婚して挙式をあげて、チェンマイに帰る前に実家に戻ってきたが、やはり子どもは子どもだった。そこで私はブレイクスルーできるのではと勝手に思っていた。

でも1年に1回しか基本的に帰ってこないので、まあこんなもんだ、人間何があるかわからないしこういう時間も大事なのだ、私の創作にもつながってくるかもしれないと思い、ほどほどに仕事をし、日本の生活を過ごしている。

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