【C-056】“メイド・イン・ジャパン“の元祖はおもちゃ!!
「MADE IN JAPAN」(メイド・イン・ジャパン)は、日本人の誇りとして長く親しまれている言葉のひとつです。戦後の復興期に創業した数々の日本の企業が作り出した、手頃で品質の高い製品は、「MADE IN JAPAN」としてブランド化され、世界中で認められました。そして日本経済を押し上げ、現在に至ることは、テレビ番組や書籍等でも多く取り上げられてきました。ソニーのトランジスタラジオは、その代表格ではないでしょうか。
世界で売れるということは、輸出産業でも花形であることを意味し、外貨を稼ぐ役割も担っています。実は、おもちゃ産業は大正時代からすでに日本の輸出産業の花形でした。
玩具は戦前から花形輸出産業
おもちゃは昔から“イーストエンドの産業”と呼ばれてきました。ここには「極東の日本」という意味と東京の東部エリアという意味があります。JR総武線の浅草橋駅周辺には昔から節句人形の店や問屋の街で今に続いています。浅草橋から北へ歩くと住所が蔵前に代わります。この蔵前は、玩具の問屋街です。1990年代中頃までは多くの玩具問屋がありましたが、市況もあり、問屋同士の合併や廃業、倒産などを経て、現在では数えるほどになっています。かつて玩具メーカーで働いていた身としては、寂しい限りです。実際、2000年以降に倒産した大手の問屋もあり、「○○が逝っちゃったよ~!」と営業マンが慌てていたことを思い出します。知り合いも多かった問屋だったので、その方々の顔が浮かんで、何とも言えない気分になりました。
昔から、玩具問屋は蔵前からその先の浅草にかけてのエリアにありました。昭和40年頃までは、玩具業界は問屋が力を持っていた時代でした。現在のようにメーカーが問屋に売り込むのではなく、問屋がメーカーと呼ぶにはほど遠い町工場におもちゃを発注していたのです。そのような町工場の多くは、問屋の近くにあれば都合が良かったのでしょうが、浅草界隈は地価も高いので、自ずと地価の安い土地で活動することになります。それが隅田川を越えたさらに東京の東側の墨田区や葛飾区だったのです。東京の東部エリアで玩具産業が栄えたのは、東京、さらに首都圏ということだけではなく、東京港にも近く、輸出するにも都合が良い場所だったのです。
玩具大手のタカラトミーの本社は、葛飾区の立石にあります。お酒好きにたまらない‘千ベロ’の街として有名です。タカラトミーは2006年に、それまでのタカラとトミーが合併して出来た会社で、立石はトミーの本社の場所です。タカラの本社は、京成線でひとつ先の青砥駅が最寄りです。現在、旧タカラの本社ビルにはグループ会社が入っています。
タカラもトミーもかつては、葛飾の小さい町工場だったのです。因みにバンダイの本社は浅草にありますが、バンダイは町工場ではなく玩具問屋が起源なので、浅草に立地しているのです。
さて、例えばゼンマイ式のクルマのブリキ製おもちゃのような機械玩具は、20以上の関連業種が必要で産業のすそ野が広く、製板、塗装、プレス、部品加工、金型製作、組み立て等々、様々な業種があり、分業することで町全体がおもちゃ工場となっていました。
当時の玩具は大きな工場設備がなくとも作ることが出来たので、始めるのに元手も要らず、参入もしやすかった点も大きいと思います。事実、関東大震災や東京大空襲で東京が焼け野原になっても、玩具産業はいち早く復活し、東京復興の原動力になりました。敗戦後は、進駐軍の空き缶をタダ同然で入手し、解体してブリキおもちゃの材料としました。そして、ほぼ手作業でブリキのおもちゃを作り、それらを輸出し、貴重な外貨を稼いだのです。
敗戦直後の1945年の秋、日本では1000万人が餓死するとされ、日本政府はGHQに食料援助を申し出ました。その際にGHQは見返りに求めたのが日本のおもちゃだったと言います。第2次世界大戦中は、アメリカでも玩具は品不足になっていたので、日本製の質の高いおもちゃは必要とされました。1947年から自由貿易が再開されるやブリキのおもちゃを得意としていたトミーは、ブリキ製のB-29を製造。アメリカに輸出し大ヒットしたというのは業界の歴史としては有名です。この頃は「メイド・イン・オキュペイド(占領地)・ジャパン」と銘打たれていましたので、当時のおもちゃが、某お宝番組で鑑定されれば相当の高値が付くのではないでしょうか。1947年に約4千万円だった輸出額は、1948年には12億円、1949年には36億円と増え、日本政府が欲しかった外貨を稼ぎました。これが復興にどれほど貢献したかの説明は不要でしょう。占領下では、自動車、船など日本の工業製品の多くは兵器転用出来ないように徹底的に統制、もしくは製造自体が禁止されていました。しかし、おもちゃは、どんなに高度な技術を用いようとも平和利用以外には使えません。また、産業自体はすそ野が広い。ここで修練を積んだ職人がやがて他の産業で活躍し、その後の自動車や家電、時計やカメラなどの精密機械の製造を支えることになります。
トミーは関東大震災の翌年の1924年に創業しました。タカラは1955年に佐藤ビニール工業所として創業しました。タカラは“ビニール工業所”と名乗っていた通り、浮き輪やビーチボールなどの空気ビニール製品を得意としていました。この中から昭和のこども文化を語る上では欠かすことが出来ない“だっこちゃん”が生まれます。
1950年代になると、玩具業界に素材革命が起こります。それはプラスチックです。それまでの木、ブリキ、セルロイドなどに代わる“玩具素材のエース”の登場です。ブリキのおもちゃは手作りで、木槌でたたきながらカタチをつくりましたが、プラスチックは金型があれば
同じカタチのものを機械で大量に生産出来ます。これによりトミーは1959年にプラレールの最初の製品「プラスチック・汽車レールセット」を発売します。
プラスチックの登場で、それまでの「町全体がおもちゃ工場」が徐々に変化していきます。葛飾区にたくさんあった町工場も少しずつ姿を消すことになります。
1980年代以降は、玩具メーカーの生産拠点は海外に移ります。長らく中国での生産が続きましたが、人件費の高騰もあり、今ではタイやベトナムなどでも生産しています。
玩具は明治時代後半から、ドイツに並び優秀な工業製品でした。通常の工業製品であれば、品質が高く手頃な価格であれば売れます。日本製の家電や自動車、カメラなどはこの単純明快な理屈で売れました。しかし、玩具は工業製品として優れているものが、必ずしも売れるとは限りません。子ども達のお眼鏡に叶わなければ売れないのです。おもちゃメーカーの社員であれば、ここを超えること、すなわちユーザーの半歩先を見据えて“驚いてもらう”、“喜んでもらう”、そして買ってもらうことが何よりも楽しいわけです。私も以前はその仕事をしていました。現在は、自社ビジネスに活用しやすいオリジナルキャラクターの提案、運用コンサルを中心に活動しています。ご興味ある方はお気軽にお問い合わせください。
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参考:日本文芸社 荷風!(8号)「東京・下町おもちゃメーカー」