数学書の表紙を読む ちくま学芸文庫Math&Science編

究極の浅読へのご招待

数学の専門書を読むのは難しい。数学書を読むことはある意味で究極の精読を強いられる行為である。まず定義に始まり、命題や定理が述べられる。そしてその証明が展開され、それを繰り返しながら数学の理論がページを追うごとに組み立てられていく。難しいのは、その証明や定義が正しいものであると納得する行為である。ある定理が使われていれば、その定理が使える状況かどうかを確認しなければ正しさを納得できないし、初学者がうっかりスキップしてしまうような「行間」もあることが多い。知らない定理が使われていれば他の本を当たったり、一目で追えない計算を手を動かして実行してみたり……。思ったようには読み進められない。

記述の正しさを納得したいという誠実な心と、藪を漕いでいるような進み具合のもどかしさとのジレンマに、慣れないうちは苦しみさえ覚える。深い理解のために、ひとつひとつの記述に注意を向ける、深い読書の極致にあるともいえる行為だ。

しかし、この記事では、その対極にあるといってもよい、数学書に対する究極の「浅い」読書の楽しみ方を提案する。すなわち、数学書の究極の表層「表紙」を楽しむのである。そしてそれは、正しさの納得を目指すrigorousなものではなく、ぜひ「ゆるい」発想で実践されるべきものだろう。そこで、以下では私もとにかく自由に書く。

数学書の表紙の特徴

数学書の表紙は、他の分野の専門書に比べて、幾分か抽象的である。ひとことでいえば、「よくわからない絵」である。数学では、扱っている対象が他の分野の場合のように物理的な実在を持たないことが多い。また、現象として誰の目にも明らかに表れているものでもない。したがって、具体的な対象の写真やイラストをそのまま表紙のデザインとして用いることがほとんどの場合できないのである。そこで、必然的に抽象的なデザインになることが多い。

例えば、内田「集合と位相」や堀田「代数入門 -群と加群-」などで知られる裳華房の数学シリーズでは、表紙の真ん中に大原美術館所蔵の堂本尚郎作・「臨界:水」という絵画を使用している。(なお、内田「集合と位相」は今年、版が改められ、表紙のデザインが変わった)

表紙を味わうならまずはちくま学芸文庫

さて、ここまで数学書の表紙の特徴を簡単に述べたのだが、ここからは具体的にいろいろな数学書の表紙を味わっていきたい。そこで、まずお勧めしたいのが「ちくま学芸文庫 Math&Scienceシリーズ」の数学書である。

この「ちくま学芸文庫 Math&Scienceシリーズ」の数学書は文庫本の数学書である。基本的には数学書は単行本として出版されることが多く、サイズもA5サイズ以上のものが多いが、これはまさしく文庫本の形で出版されている。しかし、文庫本だからと侮ってはならない。これらは、かつて他の出版社から出版されていたが残念ながら絶版となった数学書を、筑摩書房が文庫本として「復活」させたものであることが多い。一度は絶版となったとはいえ、再び甦ることを待望されてカムバックを果たした数学書たちなので、その内容の充実は保証されている。その一方で、文庫本なので価格は安く、初学者や数学以外の分野の人も気軽に手に取りやすいという側面もある。

そして、このシリーズの楽しみは内容だけではない。カラフルな表紙の多様性が、書店で手に取ったときに楽しいのである。

①「複素解析 1変数解析関数」笠原乾吉

最初に取り上げたいのは、名著・アールフォルス「複素解析」の日本語訳も手掛けた訳者自身による1変数複素解析の教科書である。実数を変数とする(高校以前の感覚でいえば)「普通の」微分可能関数の自然な拡張でありながら、その性質において実関数とは全く異なる様相を呈する複素正則関数について探求する分野が複素解析である。

複素正則関数の定義とその性質を極めてコンパクトかつ簡潔にまとめた最初の3章は見事である。そこから正則関数・有理型関数の存在問題や、リーマンの写像定理、1次変換、楕円関数という複素解析のトピックへと踏み出し、複素数の世界の幾何が展望できるところまで読者を連れていってくれる。私は2回生のときに買って3回生にかけて学んだが、この書に広がる複素解析の美しい世界が懐かしくなれば今でも読み返す。

さて、本題(?)の表紙である。数学書でありながら、写真を表紙としているのは珍しいのではないか。

風力発電用であろうか、風車が6本並んでおり、その遥か奥には海が広がっている。さらに、目を凝らして見れば、そのさらに奥は対岸であり、そこにも風車が建っていることがわかる。海沿いでこれだけ風車が建てられているのだから、おそらく地形的な理由もあって風の強い土地であろうと推測される。風車の向きから、海から陸に向かって風が吹いていることがわかる。空には綿雲が浮かんでおり、これだけでは判断が付きにくいが、季節は夏というよりも冬という感じがする。風車が少し肌寒い海風を受けてくるくるとまわっている映像が目を浮かぶ。こうした穏やかな風景のなかで、複素関数の住む世界のことをぼんやりと考えていたい。

風車が「まわる」と書いたが、「まわる」ことは実解析と比較しての複素解析を大きく特徴づけることでもある。実数の数直線は1次元的であり、そこで点が円周のようなループを描くことはできない。ただの往復運動に潰れてしまう。しかし、複素平面は平面だから、ループを描くことができる。そのループのなかにある有理型関数の特異点が、ループに沿った関数の積分を特徴づけるというのが留数定理である。留数定理からは、系として自然に偏角の原理が出る。これは、正則関数の「巻き付き」を計算する定理だ。

唐突だがf(z)=√zや、f(z)=z^{1/3}といった複素関数を考えよう。これらの関数は、狭い領域では各zごとの値を1つに決められて正則であるが、複素平面全体ではそうはならない。どこかで不連続を生んでしまう。原点のまわりをzが1回転しても、f(z)は1/2回転や1/3回転しかしてないからである。しかし、複素平面を2枚以上用意して、それを上手く切り貼りしたもの:「リーマン領域」を作れば、それを定義域としてf(z)がきちんと定まり正則になる。原点を除いておけば、これはリーマン面と呼ばれる曲面になっており、リーマン面は被覆面の理論を通して本質的な「ループ」の有無:基本群と結びつく。

この表紙は複素解析に対して何の知識がなくても十分に魅力的な写真であるが、いま見直してみると、そうした複素関数の躍動する姿を確かに想起させる。

②「ベクトル解析」森毅

つづいて紹介するのは、その数学史への深い造詣と数学に対する明確な洞察に基づいた語り口が私の心をつかんで離さない森毅氏の著作、「ベクトル解析」の表紙を見ていきたい。

これも上半分は写真である。何らかの工場にでもありそうな鋼の機構が、遠く紙面の奥へと連なっている。大きな円形のものは歯車のようにも見えるが、他の歯車と嚙み合って動くというよりはむしろ、単に回転のトルクを大きくするためにあるように見える。いずれにせよ、機械系のことには全く知識がないので、なにもわからないが、先ほどの「複素解析」よりは幾分も無機的な、工業的な勤勉さを感じ取ることができそうな表紙だ。円形のパーツのギザギザにオイルのような反射があったり、「ベクトル解析」の「べ」の字の上のほうの部分に塗装の跡があるのが生々しく、働く機械の手触りを感じる。それでいて、下半分は鮮やかなエメラルドグリーンの一色だ。この上半分にこの下半分を組み合わせた全体はなぜかとても均整が取れていて、鮮やかな印象を受ける。書店でこの本に出会ったら、ぜひベクトル解析の勉強をもう一度やろうと思えるだろう。

この本は1回生のときから愛読していて、ことあるごとにこの本の記述を胸に刻み込んできた。私はベクトル解析がもともと好きで、まるで絵に描いたような曲面の上にも「微積分」が存在するというのが、数学の限りない広がりを予感させていて、そこが好きだった。しかしSNSなどで数学の徒のコミュニティを見てみれば、いい加減な証明に終始するベクトル解析は嫌いだし応用のための数学でつまらない、という人が結構いることを知らされ、内心がっかりしていた。

実際、ベクトル解析は電磁気学や流体力学の発展とともに、純粋数学とは別の場所で育ってきた数学だった。解析学の教科書においても、「多変数の微積分」とは別物であるかのような扱いを受けてきたという。本書は、生まれを異にした「多変数の微積分」と「ベクトル解析」は本来分かちがたいものであり、統合して教えられるべきことを明確に述べる。そして、大学初年度数学の2大基礎である「1変数の微分積分」と「線形代数学」の最初の結節点としての「多変数の微積分・ベクトル解析」を位置付けている。

そしてそれがポアンカレやカルタンの活躍した華々しい数学世界への入り口であることを述べ、電磁気学や流体力学に始まったベクトル解析のバックグラウンドを振り返って森氏は次のように述べている。この言葉は、私が自分自身に数学のことを問いかけるとき、最も大切にしている言葉だ。

それは「応用」というより、その<世界>そのものが、<数学>を開示しているのだ. ここで、「純粋数学」か「応用数学」か、といった問いはひどく矮小にきこえる.  (p311)

この表紙は、「応用」を源泉として生まれたがために不当な批判を浴びてきたベクトル解析の来歴を示唆しているのだろうか。だとしたら下半分の緑一色は「純粋」を表しているのだろうか。

ああ、ベクトル解析よ、胸を張れ。

③「エキゾチックな球面」野口廣

ここまで2つ写真を用いた表紙の書を紹介したので、最後はイラストを使った表紙の本を紹介しよう。2つ目の「ベクトル解析」も数学書としては「ゆるい」本ではあるが、こちらは完全に読み物としての感がある。

目を引くのは、濃いパープルに白地のタイトルである。これがタイトルのフォントと相まって、もはやサイケデリックな印象さえ与える表紙だ。配置された3つの球も、その色彩や模様は現実離れした心象的なものであり、妖しさを醸し出している。

「エキゾチックな球面」というのは、ご存じの方も多いだろうが、1956年にアメリカのJ.ミルナーが発見した、「通常のものとは異なる微分構造をもつ27個の7次元球面」のことである。球面やトーラスなど多くの多様体にはその上で「微分」をできる構造=微分構造が入ってくるが、7次元の球面は、空間としては同じであっても本質的に全く異なる28個の微分構造が入りうる、ということをミルナーは示したのである。より平たく言えば、それらの球面たちは、全く同じ見た目をしていながら「微分の文化」が全然違っているということだ。表紙の3つの球は、その模様や色が異なっている。水滴のようなものの大きさが全く違う。「文化の違い」の表現だろうか。

「微分の文化」が一意でないことが、7次元球面という比較的単純な多様体において示されたことは数学界に一大センセーションを引き起こした。そしてこれが、微分トポロジーという単一の分野の誕生であった。

本書は、1960年代におけるトポロジーの最前線を、幾何学の深い知識を持たない大学生にもなんとなく感じられるように語ってくれる。モース理論やファイバーバンドル、さらにはトムのコボルティズム理論といったトポロジーのアイデアを、初学者にも掴めるように、かといって一般向けの書にありがちな数学的具体性のない説明に陥ることのないように与えている。そして、「エキゾチックな球面」の構成法にも踏み込んで、組み合わせトポロジーと微分トポロジーの関係にも言及している。この本は1969年に一度ダイヤモンド社から出版され、2010年に文庫として復活したものだが、その時代にこれだけの一般向け書籍が存在していたことは驚きだ。

本書の魅力は単に知識だけではない。自身もアメリカでトポロジーの最前線にいた著者は、トポロジーのスーパースターたちがその思考を躍動させる姿をありありと知っている。トポロジーが花開く激動の時代の空気感が、この表紙の奥には詰まっていた。それを読めば、「エキゾチックな球面」が、数学者の幻覚などではない、むしろ尊い思考の奥底に確かに在る現実だということを知らされるだろう。

気に入った表紙の数学書を手に取ってみよう

以上、ちくま学芸文庫から、3つのタイトルを選んで紹介した。「究極の浅読」などと言っていたのに、ちゃっかり中身を読んでいるじゃないか、と思われたかもしれない。それは確かに弁解しようもないが、実際私が、これらの本を手に取ったときその表紙の見た目に惹かれていたことは間違いないのである。理想を言えばその瞬間の感覚をしっかりと切り離し、純粋にそれを書くべきだったかもしれない。しかし、多少なりとももう中身を知ってしまった以上、その経験も踏まえて書くことが誠実だと判断した。

ひとつ深刻な問題として、数学書はわりとすぐに絶版になる。マーケットが狭い世界なので、良い本であろうと、その分野の教科書としての絶対的な地位を確立できなければ危うい。(なお、私の専門である地球科学はさらに厳しい状況である) 「エキゾチックな球面」を書いた野口廣氏の著書も、ちくま学芸文庫から他にふたつ出ていて、両方とも面白い本だが、現在品切れとなっている。

そのようななかで、数学書を楽しむための手法として、「表紙」という観点から提案した。バリバリ数学やってるよという方も、数学に興味はあるけど経験や自信がないという方も、ぜひお近くに数学書を置いている書店があれば、あなたのお気に入りの表紙を見つけて、手に取っていただきたい。それが数学のより深層への入り口になることもあると思う。

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