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村上春樹の「父性をめぐる冒険」 ~『猫を棄てる』を読んでみた

村上春樹の新刊、
『猫を棄てる 父親について語るとき』
を読んでみた。

これは、「エッセイ」というよりは、
「ミステリー小説」か「推理小説」に近いかもしれない。

残された「いくつかの記憶」と「いくつかの言葉」から、
村上が自分の
「父親はどういう人間であったか」
を大胆に推理していく。

現実を元にしていながら、ここに書かれた内容は、
大部分が
村上の推論、推理である。

ノンフィクションでありながら、
村上のイメージの世界に遊ぶフィクション的な要素もあって、
村上ファンであれば、その世界に引き込まれていくだろう。

精神科医の私からみると、
この本は、
村上にっとての「父親探し」の旅に見えた。

小説というのは、それが完全なフィクションであっても、
「自分の体験」の影響を強く受けるし、
自分の知っている友人、知人、家族たちが、
登場人物の中に、意識的に、あるいはときに無意識に
投影されるのは、当然であろう。

村上の小説に出てくるリアルな登場人物たちも、
そうに違いないと想像しながら村上の作品を読んではいた。

先日、たまたま読み直した『ネジ巻き鳥クロニクル』。

読んでいる途中に、
「太平洋戦争の兵士たち」は誰をモデルにしてるのだろう?
という考えが一瞬、頭をよぎった。

まさか父親? と思いながらも、
年齢的に合わないな、とその仮説は却下してしまった。

『猫を棄てる』で明かされた、
父親が太平洋戦争で兵隊として、
大陸に出征していた時期がある、という事実。

そして、自分の父が日本軍の虐殺行為に
加担していたかもしれない

という疑念。

その「疑念」を拭いさるために書かれたのが、
おそらくは、この『猫を棄てる』だったのではないか。

そして、本書を読むと思い出さざるを得ないのが、
戦争における残虐性を強烈に描き出した
『ネジ巻き鳥クロニクル』(1994年)。

今から、26年前に『ネジ巻き鳥』が書かれ段階では、
「父親が虐殺に加担したかもしれない疑念」は、
相当に強いものではなかったか。
(まだ父親は健在だった時期)

『猫を棄てる』を読んだ今だから言えることだが、
それは、「父親探し」というよりは、「父親への糾弾」。

「親父、まさか残虐行為、してないよな?」
という、父親の喉元にナイフをつきつける。
そんな鋭さと、破壊的なエネルギーを宿した作品が
『ネジ巻き鳥クロニクル』。

いうなれば、
村上の「父親殺し」の作品、
だったのか・・・。

『猫を棄てる』を読むと、
『ネジ巻き鳥』における、
新兵に捕虜殺しを強要するエピソードが
否が応でも、思い出される。

村上の作品には、
「父性が描かれない」という指摘は
研究者の間で昔からあったと思う。

しかし、『ネジ巻き鳥』のように、
実の父親の体験(推測レベルではあるが)を
見事にオーバーラップさせた作品があったとなると、
そうした解釈も変わらざるを得ないだろう。

『猫を棄てる』は、
何気ない父親とのエピソードをか書き綴ったエッセイにも見えるが、
私は、村上が自ら、あまり触れたくはなかった、
父親との関係性について赤裸々に語った。
苦渋の自己開示の1冊である。

本書の一節。

「(父親とは)最後には絶縁に近い状態となった。
20年以上全く顔を合わせなかったし、
よほどの要件がなければほとんど口もきかない、
連絡もとらない状態が続いた」という告白が、
その理由を示しているようでならない。

この一節は、非常に重たい。

今まで、村上作品に「父性」が描かれなかった、
というか意図的に避けられた理由
ではないか。

ちなみに、
村上作品に「父性」が描かれない、は
『騎士団長殺し』以前の話。

自分の意志とは裏腹に、事件にしょうがなく巻き込まれていく
今までの村上作品の「僕」とは異なり、
『騎士団長殺し』の「私」は、
自分の確固たる意思、決断によって、
少女の救出まために異世界へと飛び込んでいく。

過去の村上作品の主人公とは異なり、
相当に強烈な「父性」を感じさせる人物に私は見えた。

村上の「父性」に対する考え方、描き方というものが、
『騎士団長殺し』で180度変わったと私は感じたが、
『騎士団長殺し』の後の今。
『猫を棄てる』が登場したことには、
非常に必然性があるだろう。

タイトルそのものがそうだが、
『騎士団長殺し』は「父親殺し」
の話と私は解釈する。

そして、『猫を棄てる』は、「父親との和解」。

「父親殺し」が完了したからこそできる、
「父親との和解」が、はじめて起こりえる。

当然、『騎士団長殺し』の前に、
『猫を棄てる』が書かれることはなかっただろう。
 
以上が、私の
「村上と父性」についての、大胆な推理である。

正しいかどうかは、わからない。

『猫を棄てる』は、
村上にっとての「父親探し」の旅を描いている。

そして、この1冊から、
我々読者の「村上春樹探し」の旅が始まる。

本書では、村上が父親について、「どんな感情をいだいていたか」(過去)
については淡々と描かれているが、
村上が父親について、「今、どんな感情をいだいているか」(現在)
については、あいまいで、よくわからない。

何度か読み返してみたけれども。

それは、村上自身が「わからない」から、
本書を書くことで、
父親と改めて向き合おうとしたのかもしれない。

『猫を棄てる』は、普通の人が、普通に読んでも
あまりおもしろくはないかもしれない。

しかし、
「村上春樹探し」のガイドブックとして読むと、
俄然、おもしろくなってくる。

今まで訪れたことのない、村上作品の深部、
あるいは裏側へと誘ってくれる、
そんな「旅」のヒントが満載なのである。

最近は、「ビフォーコロナ」「アフターコロナ」という
言葉がよく使われる。

本作を読む前と後では、村上作品の理解や解釈が
大きく変わってしまう。

それは、
「ビフォー猫棄て」「アフター猫棄て」
ともいうべき、世界の変容である。

ということで、村上春樹ファン。
いや、「村上春樹とはどういう人間かなのか」
について知りたい人にとって、
『猫を棄てる』は、
非常に好奇心を刺激する作品であり、
読むべき1冊と言えるだろう。

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