kaniko

絵画と歴史が好きです。ワインと日本酒も好きです。

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最近の記事

この絵は1875年に描かれた『聖母マリア、幼子イエスと洗礼者ヨハネ』になります。イエスとヨハネは『聖家族』と構図が同じで、台座が今回の絵と同じデザインですね。ブグローは1872年に娘を、1875年に息子を亡くしています。『聖家族』と違い、マリアが神格化されているように感じます。

    • 『聖母と天使』ウィリアム・アドルフ・ブグロー 、1900年

       今回は2024年初めての投稿なので、アングルでない画家の絵を見ていこうと思います。(でもアングル系統ではありますし、まあ時代は重なっています) この『聖母と天使』の絵は実はクリスマスに掲載を考えていたのですが、年末忙しくなかなかこの絵と向き合えず・・・。 『聖母と天使』の絵はクリスマスに掲載を考えたほど聖なるかな、に合う絵ではありますが、2024年初の絵として今回はブグローの『聖母と天使』を見ていきたいと思います。 ウィリアム・アドルフ・ブグロー  ブグローは1825

      • サロン・ド・パリ、1824年

         さて、アングルを追いかけてきたからには避けれない1824年のサロン。 ここでアングルは前回記事にした『ルイ13世の請願』で高い評価を得ます。イタリアにいたアングルはパリでアトリエを開くほどとなります。 それと同時にドラクロアとは対立をしていきます。  もちろんアングルの『ルイ13世の請願』とドラクロアの『キオス島の虐殺』がサロンでは目玉になっていたのですがそれ以外でも名画が発表されています。一緒にのぞいてみましょう~  この絵は1824年のサロンの様子を描いた絵です。あ

        • 『ルイ13世の請願』ドミニク・アングル

           さて、今回のこの絵はアングルがパリに帰り咲いた作品として有名です。アングルはそれまでずっとイタリアに拠点を移して活動をしていました。その一方でサロンには毎年絵を送っています。  イタリアにいたおかげでナポレオンの政変に巻き込まれなかったとも言えます。ある意味遅咲きであるアングルですが、今回のこの絵のおかげで評価を得てパリに戻ってくるのです。  というわけで、アングル愛の私が燃えて記事を書こうと思います! 『ルイ13世の請願』 では今回の絵を見ていきましょう。 さて、そ

        この絵は1875年に描かれた『聖母マリア、幼子イエスと洗礼者ヨハネ』になります。イエスとヨハネは『聖家族』と構図が同じで、台座が今回の絵と同じデザインですね。ブグローは1872年に娘を、1875年に息子を亡くしています。『聖家族』と違い、マリアが神格化されているように感じます。

          そういえば、マティス展行ったのですよー。マティスのことをそんなによく知ってるわけではなかったので、逆にすごく良かった!(予習出来なかった)これはマティスの娘を描いた絵でキュビズム的に描いてます。白とバラ色の頭部、1914年。マティスの試行錯誤が取れる絵で…感銘を受けました。

          そういえば、マティス展行ったのですよー。マティスのことをそんなによく知ってるわけではなかったので、逆にすごく良かった!(予習出来なかった)これはマティスの娘を描いた絵でキュビズム的に描いてます。白とバラ色の頭部、1914年。マティスの試行錯誤が取れる絵で…感銘を受けました。

          先週記事にした黒田清輝は肖像画もたくさん残していて明治の有名な人をたくさん描いてます。また身近な人も描いているのですがその中でも友人であった久米桂一郎の絵はなんかいいですよね。仲の良さがわかる一枚。久米の資料は少なく孫が外交官ということしか追えなかったのでいつか久米美術館に行くぞ

          先週記事にした黒田清輝は肖像画もたくさん残していて明治の有名な人をたくさん描いてます。また身近な人も描いているのですがその中でも友人であった久米桂一郎の絵はなんかいいですよね。仲の良さがわかる一枚。久米の資料は少なく孫が外交官ということしか追えなかったのでいつか久米美術館に行くぞ

          『湖畔』黒田清輝、1897年

          夏バテで倒れていました。。みなさん体調管理大丈夫でしょうか。。 さて気づいたら8月。恒例の日本画です。 今回は日本人なら誰しも目にしたことがある黒田清輝の湖畔を取り上げてみようと思います。 この涼しさが伝わりますように。。 黒田清輝 さて、誰もが知る黒田清輝ですが、少しおさらいしてみたいと思います。 黒田清輝は、近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全

          『湖畔』黒田清輝、1897年

          前回アングルがラファエロの一生を描くつもりで頓挫したという記事を書きましたが、この絵はその一連の絵の一つである『ラファエロと枢機卿ビッビエーナの姪との婚約』になります。この絵よく見ると枢機卿の後ろに誰かいて見てるんですよー。

          前回アングルがラファエロの一生を描くつもりで頓挫したという記事を書きましたが、この絵はその一連の絵の一つである『ラファエロと枢機卿ビッビエーナの姪との婚約』になります。この絵よく見ると枢機卿の後ろに誰かいて見てるんですよー。

          『ラファエロとラ・フォルナリーナ』ドミニク・アングル、1814年

          以前からアングルはラファエロが大好きと書いてきました。彼の作品に強く傾向が出ているのも見てわかります。 今回は少しラファエロをみていこうと思います。有名な画家なのでみんなご存じだと思いますがサラッと行きたい。。。です。 ラファエロ・サンティ ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと共に盛期ルネサンス期を代表するイタリアの画家で、建築家としても知られています。彼は芸術家たちの技術や作風をインプットし、自分なりの表現としてアウトプットするのに非常に長けた人でし

          『ラファエロとラ・フォルナリーナ』ドミニク・アングル、1814年

          前回投稿した北野恒富が結成した画塾「白耀社」。この画塾で活躍した4人の女流画家(星加 雪乃、別役月乃、城田花乃、四夷星乃)が「雪月花星」と呼ばれていました。宝塚みたいですよね。本編とははずれるのでこちらでつぶやきます。絵は星加雪乃の初夏。

          前回投稿した北野恒富が結成した画塾「白耀社」。この画塾で活躍した4人の女流画家(星加 雪乃、別役月乃、城田花乃、四夷星乃)が「雪月花星」と呼ばれていました。宝塚みたいですよね。本編とははずれるのでこちらでつぶやきます。絵は星加雪乃の初夏。

          菅楯彦を調べていたら展示会を見つけました。しかも無料!!行きたい!!!場所は関西大学博物館、7月22日まで。うーん夏休み取るか。。。うーん。。菅楯彦は恒富とも仲が良く、恒富の弟子は結構楯彦にも師事しているのです。魅力的だわ。。。

          菅楯彦を調べていたら展示会を見つけました。しかも無料!!行きたい!!!場所は関西大学博物館、7月22日まで。うーん夏休み取るか。。。うーん。。菅楯彦は恒富とも仲が良く、恒富の弟子は結構楯彦にも師事しているのです。魅力的だわ。。。

          北野恒富やるなら大阪の日本画展に行くべきだったのに日程が合わなかったのがすごい悔やまれる。こういうのなんなんだろ、運なのか? 何はともあれ大阪画壇なかなか興味深かった。女流画家についてもやっていきたい。

          北野恒富やるなら大阪の日本画展に行くべきだったのに日程が合わなかったのがすごい悔やまれる。こういうのなんなんだろ、運なのか? 何はともあれ大阪画壇なかなか興味深かった。女流画家についてもやっていきたい。

          『願いの糸』北野恒富、1914年

          前回、次はアングルの絵を!と書きましたが月初めなので恒例の日本画をみていきたいと思います。 6月は事情があり飛ばしましたが、今月は7月ということで七夕にまつわる絵を見ていきたいと思います。 乞巧奠 七夕の夜にたらいの水に星を映して針に糸を通して願いをかけるのは、乞巧奠という中国由来の風習です。日本でも宮中の儀式から始まり、しだいに民間にも拡がりました。 7月7日に織女星にあやかって、はた織りや裁縫が上達するようにとお祈りをする風習から生まれました。庭先の祭壇に針などをそな

          『願いの糸』北野恒富、1914年

          『キオス島の虐殺』ウジェーヌ・ドラクロワ 、1824年

          1824年にドラクロアはこのキオス島の虐殺を発表します。この絵も実際にあった事件が背景にあります。 ジェリコーのメデューズ号の筏に感化されたものだと思われます。 ジェリコーのメデュース号の筏については下記に記事にしましたのでおさらいしてみてくださいね。 ギリシア独立戦争 では、まずこのキオス島の虐殺の歴史的背景から見ていきましょう。 1789年から1795年にかけてフランス革命が起こります。フランス革命によって登場したナポレオンに刺激されてギリシアでは独立運動が盛んに

          『キオス島の虐殺』ウジェーヌ・ドラクロワ 、1824年

          サロン・ド・パリ、1819年

          結局このメデューズ号の筏に私も魅せられてしまい、一回では書き切れなくなってしまいました。 このメデューズ号の記事を書こうと一ヶ月くらいはこの絵のことを考えています。 絵が納められているルーブル美術館には昔行ったことがあるのですが、この絵を見たときここまで衝撃はなかったので(大きい絵だなーと思ったくらい)意識の違いってすごいなと思います。 さて、今回はメデューズ号の筏がデビューした1819年のサロンについて見ていこうと思います。この1819年のサロンにもちろんアングルも出品し

          サロン・ド・パリ、1819年

          『メデューズ号の筏』1818年-1819年,テオドール・ジェリコー

          このメデューズ号の筏を描いたのはドラクロアと同じ門下生であり、友人であるテオドール・ジェリコーです。 ドラクロアに多大な影響を与えたのが今日のこの一枚となります。 本来であれば日本画の記事を先週UPする予定でしたが諸事情があり掲載をやめました。近いうちに掲載できればな・・・と思っています。 さて、ジェリコーについてですが、なかなかしんどく・・・記事を書き上げられませんでした。。今回の絵はジェリコーの傑作ですが、調べれば調べるほどなかなか進められませんでした。。 若干長く

          『メデューズ号の筏』1818年-1819年,テオドール・ジェリコー