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『願いの糸』北野恒富、1914年

前回、次はアングルの絵を!と書きましたが月初めなので恒例の日本画をみていきたいと思います。
6月は事情があり飛ばしましたが、今月は7月ということで七夕にまつわる絵を見ていきたいと思います。

乞巧奠

七夕の夜にたらいの水に星を映して針に糸を通して願いをかけるのは、乞巧奠という中国由来の風習です。日本でも宮中の儀式から始まり、しだいに民間にも拡がりました。
7月7日に織女星にあやかって、はた織りや裁縫が上達するようにとお祈りをする風習から生まれました。庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げます。やがて、はた織りだけでなく芸事や書道などの上達も願うようになりました。

平安時代にこの風習が日本に伝わると、宮中行事として七夕行事が行われるようになりました。宮中の人々は桃や梨、なす、うり、大豆、干し鯛、アワビなどを供えて星をながめ、香をたいて、楽を奏で、詩歌を楽しみました。
サトイモの葉にたまった夜つゆを「天の川のしずく」と考えて、それで墨を溶かし梶の葉に和歌を書いて願いごとをしていました。

『願いの糸』北野恒富、1914年
こういう美人画好みです。洋画にはない美しさがありますよね。

伏し目がちで、やや愁いを含んだ表情の女性が、手には赤い糸を持ち、針に通しています。集中しながら、しゃがんでいる姿勢には緊張感を感じます。頭上には紅白の糸が垂れ下がり、前にある水を張ったたらいには、梶の葉を浮かべています。

北野恒富

北野恒富は明治13年(1880年)金沢で生まれます。
印刷物の版下を掘る彫刻をしていましたが、画家を目指して大阪へ行き稲野年恒に学びます。

稲野年恒は月岡芳年の弟子で新聞の挿絵画家として有名です。明治二十六年(1893)には、毎日新聞社の記者としてシカゴ万国博覧会に派遣されたほどです。

さて、北野恒富は美人画家として活躍しましたが、画風が何度か変化します。はじめは挿絵画家として生活していたので企業のポスター絵などを描いています。

神戸湊川貿易製産品共進会ポスター
まんまミュシャですね。初期は洋画の勉強もしていたそうです。

1907年、師匠である稲野年恒が亡くなると、本格的に日本画家への転向を決意したと考えられています。

浴後 1912年
艶っぽくていいですなー。上のポスターの時と画風が変わっています。

浴胸元をはだけた女性が縁側で涼んでいる浴後のひとこま。
手すりや床の水平線と垂直線を組み合わせた構図に装飾的な木々の曲線をからませています。背景をわざと抑えた色調にしているため女性が艶やかに映ります。

恒富はアールヌーボー風の女性を描いて「画壇の悪魔派」と呼ばれます。この「画壇の悪魔派」は京都の画家たちによる命名ですが、恒富の洋風の写実表現と、妖艶で退廃的な作風を指して言われました。
この頃恒富は野田九浦、菅楯彦、上島鳳山らと大正美術会を結成します。彼らと大阪画壇の再編に奔走します。

恒富と大阪で活躍していた画家についてみてましょう。

『辻説法』野田九浦、1907年

野田九浦は黒田清輝に学んだ画家です。この辻説法で日展で賞をとると、大阪朝日新聞社に入り新聞の挿絵を描いていました。

『春宵宜行』菅楯彦

菅楯彦は独学にて絵を学び、「浪速の絵師」「関西画壇の長老」と評された日本画家です。日本三名妓であった八千代との結婚も話題となりました。

八千代は当時、東京の萬龍、京都の千賀勇らと合わせて日本三名妓と評されるほど絶大な人気を誇る名妓でした。美人というだけでなく性格もよいということで著名人に愛されたそうです。この八千代と結婚したことで菅楯彦の名が売れたそうです。

八千代は38歳という若さで亡くなってしまいます。菅楯彦はこれを酷く悲しんだと言われています。
 後年、 北野恒富が妻を亡くしたとき、通夜の席で号泣する恒富に、「親を亡くして悲しめば孝子、子を失って悲しめば慈父慈母、友を失って悲しめば友情の深さをほめられるが、女房をなくして泣けば阿呆といわれる。どもならん」と冗談に託して慰め、「私にも覚えがある。その当時、家に帰ってこれが自分の家だったのか、と思うたものだ」と言ったと残っています。

『緑陰美人遊興之図』上島鳳山
1909年の日展で落選しています。古風な絵という印象が強かったからでしょうか。
ブランコという点からも西洋画を取り入れて描いていたというのがわかります。

上島鳳山は、円山派の西山完瑛らに師事し、動物画や美人画を得意とした画家です。酒を愛する豪放磊落な性格で、酒が切れると冷酒をあおって絵を描いたとか。
繊細で官能的な鳳山の美人画は、関西では竹内栖鳳に迫る人気を得ていました。

1913年恒富は日展に心中ものである「朝露」を発表します。しかし、この絵は落選してしまいます。これが響いたのか翌年の文展には出品をやめてしまいます。

願いの糸

岡倉天心のスキャンダルによる失脚により、日本美術院が結成されます。今の院展です。しかしメンバーであった菱田春草や岡倉天心が相次いでなくなっていまいます。(この辺もっと勉強して記事にしたいものです)

1914年、横山大観が彼らの意思を引き継ぐ形で第1回再興院展を行います。この再興院展に誘われたのが恒富でした。恒富は大阪からただ一人この再興院展に参加します。そしてこの院展に出品したのが今回の願いの糸でした。

願いの糸、1914年

上記に挙げた浴後と比較するとけなげで可憐な様子がわかります。また右上の糸が紅白であることから、「願い」は恋愛成就であると推し量れるのです。
この絵は高く評価され、これ以降恒富は院展に力を入れていきます。

恒富は、画塾「白耀社」を主宰して多くの門下生をそだてました。この門下生には女性が多く中でも島成園は特に有名です。
ちなみに恒富は谷崎潤一郎の小説の挿絵を描いていたことで、谷崎とも友好があり彼の最後の妻である谷崎松子を紹介したのも恒富だそうです。(松子は恒富に絵を習っていた)

さて、願いの糸は紅白の糸から恋愛成就の絵ということですが、この絵にぴったりな与謝蕪村の一句で今回は終わりとします。

恋さまざま 願いの糸も 白きより  蕪村



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