サロン・ド・パリ、1824年
さて、アングルを追いかけてきたからには避けれない1824年のサロン。
ここでアングルは前回記事にした『ルイ13世の請願』で高い評価を得ます。イタリアにいたアングルはパリでアトリエを開くほどとなります。
それと同時にドラクロアとは対立をしていきます。
もちろんアングルの『ルイ13世の請願』とドラクロアの『キオス島の虐殺』がサロンでは目玉になっていたのですがそれ以外でも名画が発表されています。一緒にのぞいてみましょう~
この絵は1824年のサロンの様子を描いた絵です。あれ?アングルの絵が真ん中かな?と思いきや真ん中にある絵はアングルでもドラクロアの絵でもないですね…。
じつは、アングルの絵は最後の2週間のみの公開だったのです。
なんとアングルは、8月25日に開催されたサロンにこの絵を持ってきたのが9月だったそうです。自信がなかったのかもしれません。。(前々回に『グランド・オダリスク』が酷評を受けたせいかもしれません)それなのに、ほぼ中央に絵が置かれています。
ちなみにこの年のサロンにエントリーされた絵画は2537枚もあったと記録にあります。ということは、とても高待遇でこの絵が迎えられたということがわかります。
では真ん中に飾ってある絵を見てみましょう。
『アンジュー公フィリップのスペイン王位承認 1700年11月16日』
エイムの描いた1824年のサロンの絵で真ん中に描かれている絵はこれです。
当時の小説家であるスタンダールが「1824年のサロン」の論評を書いていますが、彼もこの絵を高く評価しています。
フランスの隣の国であるスペインはハプスブルク家が代々王を務めていましたが、1700年にカルロス2世が亡くなりハプスブルク家が途絶えてしまいます。そこでルイ14世は自分の孫であるアンジュー公フィリップにフェリペ5世としてスペイン王位を継承させようとします。
まあ当然周囲の国は反発するわけで、1701年にスペイン継承戦争が起こることとなります。
フェリペ5世の母はカルロス2世の姉であり、フェリペ5世の祖母はカルロス2世の伯母なので血縁的には王位継承を主張できるわけなんですが、これカルロス3世も同じなんですよね。(ヨーロッパの王家って、みんな親戚)
問題はフェリペ5世がフランス国王継承権を持ったままスペイン王となったことなんですが、カルロス3世の方が神聖ローマ帝国の皇帝となることになり・・・1713年にスペイン継承戦争が終結、フェリペ5世はスペイン王位を列強に承認されます。こうしてスペイン・ブルボン朝がはじまって現代まで続いていくわけです。
ではもう一度絵に戻ります。
これルイ14世の絵なんですよね。エイムの絵に戻ると、この絵の隣にあるのはアングルの『ルイ13世の請願』になるわけです。
『ルイ13世の請願』でルイ14世が生まれ、ルイ14世による『アンジュー公フィリップのスペイン王位承認 1700年11月16日』が中央に置かれる。ちょっと政治的意図も感じられますね。
ところでこの『アンジュー公フィリップのスペイン王位承認 1700年11月16日』のアングルの絵ではない隣に置かれた絵、要するに中央に置かれた3枚のうちの1枚がよくわからないのですよ。
1824年のサロンで政府買い上げとなった絵は1等賞をとったアングルの『ルイ13世の請願』とドラクロアの『キオス島の虐殺』。センセーショナルに迎えられた『キオス島の虐殺』を描かないわけがないと思うのです。
『キオス島の虐殺』は「キオス島の虐殺からの一場面――死、あるいは奴隷となる運命を待つ家族――数々の解説や今日の新聞を見よ」という時事的な見出しまでついたといわれています。
エイムの絵に戻ってみましょう。
このエイムの絵は、もしかしたら意図的にドラクロアの絵をわかりづらく描いた可能性もあります。
なぜか?それはエイムの経歴を見てみると見えてきます。
フランソワ=ジョゼフ・エイム
フランソワ=ジョゼフ・エイムはフランスの東部で生まれます。父親は学校で絵を教えていました。
1803年にパリに出て、ルイ16世の宮廷画家であったフランソワ=アンドレ・ヴァンサンの元で修業をします。
当時ヴァンサンの元にはジャン・アローやフランソワ=エドゥアール・ピコ、オラース・ヴェルネがいました。
エイムは1807年ローマ賞で1位となり、1808年にイタリアに留学してます。そうです、アングルもまたローマ賞をとっており1806年にイタリアに留学しています!ここで二人は恐らく留学仲間としてまた、画家仲間として友好を深めたと考えられます。(ローマ賞についてはもっと勉強して記事を書いてみたい。。)エイムはアングルより先にフランスに帰国します。
1824年アングルは44歳でした。エイムはアングルがイタリアで苦労していたのを知っていたはずです。だからこそ、このサロンでの成功にエイムも喜んでいたに違いありません。
この時、時代は新勢力であるドラクロアを押さえつけようとします。そこで記録として『1824年のサロンで賞を授与するシャルル10世』を描いたエイムもドラクロアの絵を暈した可能性があるのです。
アングルとドラクロアは次のサロンでも対立する絵を発表します。その絵を見る前に次回から、もう少しこの1824年のサロンに出された絵を見ていきたいと思います。
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