『ラファエロとラ・フォルナリーナ』ドミニク・アングル、1814年
以前からアングルはラファエロが大好きと書いてきました。彼の作品に強く傾向が出ているのも見てわかります。
今回は少しラファエロをみていこうと思います。有名な画家なのでみんなご存じだと思いますがサラッと行きたい。。。です。
ラファエロ・サンティ
ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと共に盛期ルネサンス期を代表するイタリアの画家で、建築家としても知られています。彼は芸術家たちの技術や作風をインプットし、自分なりの表現としてアウトプットするのに非常に長けた人でした。
父はウルビーノ公の宮廷画家であったジョヴァンニ・サンティです。当時人気の画家であった、ペルジーノに弟子入りしています。初期のラファエロはこのペルジーノの影響がとても強く出ています。
ラファエロの初期の作品として挙げられるのが「聖セバスティアヌス」。若干19歳くらいで描いた絵といわれています。
セバスティアヌスは密かにキリスト教に改宗していました。しかし仲間を援助しようとして改宗が発覚し、処刑の際に矢を射かけらます。身体に矢を受けながらも奇跡的に回復したセバスティアヌスは、皇帝の前で信仰を公言したため撲殺されたというもの。
この聖セバスティアヌスは、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多いのですが、ラファエロは師と同様まるで肖像画のように描いていますね。
1504年ころからラファエロはフィレンツェに行き、レオナルド・ダヴィンチと交流を持ち、彼から指導を受けます。
この絵はラファエロの聖母子像として有名な1枚ですが、フィレンツェ時代に描かれたものです。イエスとヨハネの体の描き方はミケランジェロから、このマリアを中心とした三角形の構図はダ・ヴィンチから影響を受けていると言われています。
この絵、ドラクロアも影響を受けてます。ドラクロアはミケランジェロの影響を強く受けていますが、ラファエロについても「本能的な画家」と残しています。
ラファエロは時のローマ教皇ユリウス2世に呼ばれて、1508年にローマに行きます。当時、ユリウス2世のもとにはシスティーナ礼拝堂を飾る天井画や壁画の制作のために、ミケランジェロをはじめとする名だたる芸術家たちが一堂に会していました。ラファエロもまた1520年に亡くなるまで、ローマで活躍することになります。ユリウス2世といえばボルジア家との確執が有名ですね。
ラファエロとラ・フォルナリーナ
さて、今回の1枚。
これはラファエロが生涯愛したというマルガリータ・ルティとの絵になります。
アングルはラファエロの人生についての連作を作成しようとしていましたが、途中で頓挫してしまったようです。
この絵はその連作の1つとして考案されていた絵で、ラファエロのアトリエを描いてます。
この絵にはラファエロの代表作が2つオマージュとして描いてあります。
小椅子の聖母
この絵はローマの路地を歩いていたラファエロが、仲睦まじい母親と二人の子供を見かけ、思わず側にあったワイン樽の蓋に即興で描き、『小椅子の聖母』の元になったというものです。だから丸い絵であるという伝説があるくらい昔から人々に愛された絵の一つです。
もう一つ、絵のモデルはラファエロの恋人であったマルガリータ・ルティであるというもの。恐らくアングルはマルガリータであろうと思い一緒に描きいれたのではないかと思います。
この絵はアングルのお気に入りだったらしく他の作品にも描かれています。
ラ・フォルナリーナ
ラ・ファルナリーナとはパン屋の娘という意味です。マルガリータはパン屋の娘であったようです。
作中にラファエロが描いているのはこの絵です。
ラファエロは1520年に亡くなっているのでこの絵は最晩年に描かれたものになります。この絵はラファエロが死去しローマのパンティオンへ埋葬されてから60年の後に発見されました。
ラファエロは1514年に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪にあたるマリア・ビッビエーナと婚約しています。この婚約は、その後マリア・ビッビエーナの死去によって、婚礼は行われませんでした。
しかしながらマリアが病で亡くなった後も、宮廷画家としての立場や枢機卿への配慮からマルガリータと結ばれることができなかったのです。
ラファエロはこの絵を密かに描き、最後まで手放さなかったために遺品に埋もれ、発見が遅れたとされています。その証拠に、この絵の右下部分には非販売を示す『E.I』のサインが画家の直筆によってなされているのです。
また、この絵が密かに描かれたものだとわかるのはモデルが半裸だからです。この時代ヌードを描く条件があり、一般の女性の裸は描くことができなかったからです。(以前ヴィーナスのサロンでも描きましたがおよそ300年後の画家でさえ苦労して描いているのですから、この時代であればなおさらですね)
さてもう一度今回の絵に戻ってみましょう。
今、私たちはラファエロのアトリエにいます。。彼の前のイーゼルには、描き始めたばかりの『ラ・フォルナリーナ』のキャンバスが置かれていて、ラファエロのモデルであり恋人のマルガリータは、絵のポーズをやめ、画家を抱いています。。
しかし、ラファエロはまだ作品に夢中で、彼は手に絵筆を持ち、そのまなざしはしっかりと絵に固定されています。
その一方で、モデルであるマルガリータは私たちをみているのです。
この絵は私たちにラファエロ(そしておそらくアングルも同様)は、愛と余暇の喜びを追求するために、使命である芸術を放棄してはならないということを示しています。(1813年にアングル結婚してるんで)
この絵はサロンに出品されましたがあまり高い評価は受けなかったようです。というのも1814年、ナポレオンが皇帝を退位し、ルイ18世が即位してフランス王政復古が始まった混乱期であったことも要因しているのかもしれません。この時ジェリコーも1枚出品してます。
1816年ころからジェリコーはイタリアへ行きます。この時アングルとも会ったと記録があります。この後アングルとドラクロアが対立していくわけですが、歴史にもしはありませんが、もしジェリコーが長生きしていたら。。ジェリコーはどんな絵を描いてアングルを悔しがらせたのか、少し想像してしまいます。
ラファエロが亡くなったのは「聖金曜日(復活祭の前の金曜日)」のことで、この日はラファエロ37歳の誕生日でもあったそうです。このことから彼の神格化が始まり、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説までうまれたそうです。
そのお墓はローマのヴァチカン宮殿の中のパンテオンに作られており、隣には婚約者だったマリア・ビッビエーナが眠っているそうです。。
さてさらっといけなかったラファエロ。ラファエロについては同時代の画家であったジョルジョ・ヴァザーリが『画家・彫刻家・建築家列伝』を残したおかげで今日、私たちが知ることができるのですが、このヴァザーリもなかなか興味深い人で調べながらあちこち脱線してしまいなかなか記事をかきあげられませんでした。。
次回はドラクロアのキオス島に対し絶賛されたアングルのフランスに戻るきっかけを与えたあの絵をみていきたいと思います。
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