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十字軍物語

絵で見る十字軍物語

イスラム教徒にとっての聖典であるコーランでは、生涯に少なくとも一度のメッカへの巡礼を、信徒にとっての重要な義務としている。ゆえに、もともとからしてイスラム教徒は、キリスト教徒のイェルサレム巡礼に理解ある態度で接していたのだった。

しかし、キリスト教もイスラム教も、自分たちの信ずる神以外の神は認めないとする一線は、絶対に譲らない一神教同士である。ひとたびこの一線が強調されすぎると……。

十字軍とは、一神教徒同士でなければ起りえなかった、宗教を旗印にかかげた戦争なのであった。

十字軍物語 1

西暦1099年6月7日、十字軍はついに、イェルサレムを遠望する地に到達した。

諸侯たちが馬から下り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中でも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。

騎士たちも馬を降り、それにつづく。

兵士たちに至っては思わず両ひざをついてしまい、両手をあげて泣き出す者までいた。

誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれたときからくり返し聴かされてきた聖都イェルサレムが、今や彼らの目の前にある。おりからの夕陽を浴びて、静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。

第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。

この想いの前では、諸侯と兵士の差はなくなっていた。免罪に釣られて十字軍に参加していた人殺しや盗賊と、初めから神に一生を捧げると誓約した聖職者のちがいもなくなっていた。

イェルサレムは、この種の想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の別なく、同じたぐいの思いを抱かせてしまうところが、一神教間で摩擦を生む原因であるのだった。

十字軍物語 2

人間にとっての野心は、何であろうと、やりたいという意欲である。一方、虚栄心とは、他人から良く思われたいという願望だ。人間ならば誰でも、この両方ともを持っている。二つとも持っていないというのは世を捨てた隠遁者だからここでは除外し、人間性豊かな人間に話をしぼることにする。

それで問題は、一人の人間の内部での野心と虚栄心のどちらが大きいか、だが、このことよりも重要な問題は、その人間が好機に恵まれたとき、野心で動くか、それとも虚栄心で動くか、のほうなのである。

人間には、興味をもって行うと上手くいき、関心が薄れているのに行うと上手くいかない、という性向がある。上手くいくからなおのこと関心も強まり、上手くいかないとそれに比例して関心も薄れるという具合だ。

十字軍物語 3

戦争は、人類にとって最大の悪業である。にもかかわらず、人類は、この悪から脱け出すことが出来ないでいる。

ならば、戦争を、勝った負けたで評価するのではなく、この悪を冒した後にどれだけの歳月の平和がつづいたか、で評価されてもよいのではないか。

また、平和とは、人類が戦争という悪から脱け出せない以上、未来永劫つづく平和というものもありえず、短期間ではあっても一つ一つの平和を積み重ねていくことでしか、達成されないと考えるほうが現実的ではないだろうか。

情報とは、その重要性を認識した者しか、正しく伝わらないものであるということである。

古代ローマの、ユリウス・カエサルも言っている。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけでない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

情報を活用できるのは、見たくない現実でも直視する人だけなのである。

人間を、人間らしくすることの一つは、信義にある。言い換えれば、約束したことは守るという姿勢である。

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