言葉がいかに大切かという話

 "いじめ"という言葉の根本、根の元、基礎、言葉の肥やしとなる本来の言葉を意味を知っているだろうか。

 これは私の持論としてではなく、言葉の規則について極めて当たり前の認識として書くものだ。誰も知らなわけはないし、知らないはずもないことである。

 以下は以前私が書いた、言葉に関する文章である。

「日本人におけるビジネスシーンで、同僚に改善し欲しい身だしなみを調査したところ、1位が体臭、2位が口臭という結果となった。
 スメルハラスメントが社会問題化しつつある中、日本人は食習慣や労働習慣などの生活習慣を見直し、周囲への配慮を取り組んでみてはどうだろうか」(原文参照)
わたしは常々思うことがある。
エビデンス、なる言葉に代表される日本人がぱっと聞いてわからない言葉群。
体臭、口臭など本人が如何ともしがたく思っている問題を、社会問題に変える”ハラスメント”なる言葉。
もちろん、性的嫌がらせ(セクシャルハラスメント)や職権濫用(パワーハラスメント)は社会問題に分類する重大なハラスメントであるし、
どちらも日本語で書いた重みの通り、度が過ぎれば法によって裁かれるべき重大な問題である。
本来、英語が意味するところの”harassment”とは「いやがらせ」を意味するそうだが、では上記のスメルハラスメントとは、自分本位な嫌がらせなのだろうか?
言葉は悪いが、浮浪者は風呂に入れず体臭がする。同様に彼らの中には歯も磨けず虫歯を放置せざるを得ないため口臭がする者もいるだろう。
一般的な生活基盤のある者が風呂に入る、歯を磨く、などといった生活習慣を怠って出す臭いならハラスメントだと、嫌がらせだと言われても仕方がないことは理解する。
しかし、この記事はどうだ。
年齢による体臭や、飲食による一般的な生活の果てに出る臭いを”社会問題”だとしている。
年齢が為に出る臭いを嫌われる、子持ち世代の諸兄の身にもなってほしい。
本人たち自身が気にするであろう事象を引きつり上げて、なにがハラスメントか。
社会問題だというなら、いじめや嫌がらせという言葉を横文字に置き換えて安易な造語を作りづける社会の方が問題だ。
本人たちが問題だと自覚しそうなことを社会問題にして、悪にして、強迫観念を植え付ける行為こそパワーハラスメントと呼べるのではないだろうか。
臭いに対する問題は確かに繊細である。
工業公害に対する臭いをハラスメントというならまだしも、香水の付けすぎを疎むならまだしも、人体の出すそれを社会問題だというのか?
と私は思う。
だからと言って、身近にある体臭、口臭を周りがすべて我慢すればよいものでもないし努力対象であることも理解しよう。しかし、言葉とは恐ろしいものでスメルハラスメントなどと言われると、まるで社会悪である。体臭・口臭問題というのは表層的な社会の単位で問題視するものではなく、深層的な互いの対話の中で解決すべき問題だと考える。
決して、「嫌がらせ」という言葉のすり替えで「ハラスメントだ」などと言っていい問題ではない。
さて、今回の主題は体臭・口臭ハラスメントのハラスメントという横文字にある。
言葉とは有史以来進化を続けるものである。したがって言葉の奔流が西洋に流れることもまた歴史なのであろう。
しかし、忘れてはいけないことがある。他所の国の言葉を借りて、目の前の問題を理解しにくくしたり、事の重大さを薄めてしまうような言葉をメディア諸君が使ってはならない。
正確に、老若男女問わず伝わるように、言葉の意味を噛んで含んで表現しなくてはならない。
言葉の進化は悪くはない。したがって言葉は悪くない。
セクシャルハラスメントという言葉も、最初から性的嫌がらせと言っておけば、もっと早く世の中の認知は早かったのではないかと思う。
そういった日本人特有の言葉に対する印象の強さをもって考えても悪事や問題を書くときは多国語に責任押しつけず、日本語で書いてもらいたいものだ。
言葉の諸悪ではなく、使う側の理性を問いたい。
平成30年10月8日

 フェイスブックにて公開しているが、然しもの私である。知名度などないのであるからバズることも炎上することもない。
 しかし、私も一般的な物書きである。
 書かずに気の晴れることのある方はない。
 本題に戻ろう。
 ”いじめ”という言葉の本質である。
 ウェブニュースの引用で申し訳ないが、何分、心の底から気に入らない言葉がある。
 

 「ビンタですね。それが回数や頻度が激しい時期がありましたので、これも大きなことかなと。要因としていじめが過酷で、それが(自殺の)主要因であると」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-00025885-tokaiv-soci 
Yahoo!ニュース 令和1年12月19日

 いじめが過酷で、それが自殺の主要因だったと教育員会は言ったそうだ。
 唖然とする。
 いじめが酷く過ぎたのではない、暴行が過酷だったというのに。
 最初に添付した私の文章は、重要な言葉を外国語に依存してはならないという内容である。では、今回は何か。
 本来の意味にオブラートも風呂敷もかけず、暗喩も隠喩もせず、その出来事の意味を鮮明に表現する”本体の言葉”があるにも関わらず代替語を使用する者たち、報道、教育者、その他所謂知識人たち。彼らは間違いなく無能だ。
 先般のいじめに関する記事であるが、”ビンタ”という暴行の事実を認めながら、それを”いじめ”と言い換えている。暴行・傷害事件であるにもかかわらず、逮捕・起訴どころか書類送検さえされない。
 本年話題だった教員間の”激辛カレー傷害事件”もそうである。
 いずれの紙面も『いじめ』という書き出しでしかなかった。 

 そして、最初の問いに戻る。
 ”いじめ”という言葉の本質は”暴力”である。
 誰も知らない訳がないではないか。
 ところが暴力を”いじめ”という言葉に置き換えた途端、そこで起こった暴行をだれもかれも知らぬ存ぜぬである。暴行内容は”いじめ”という名札の前菜程度にもてあそばれる。しかし、事件の重要な要因はいじめという名札ではなく、暴力の事実である。

「昨日、電車内で見知らぬ男にビンタをされた、という通報があり、警察は監視カメラの映像から20代の男を傷害の容疑で逮捕しました。また、被害者は過去にも数度にわたり同様の被害を受けており、余罪の追及が急がれます」
 これは夕方の何でもない時間に見る可能性のあるニュースを仮想した内容である。ところが――
「昨日、○○駅のホームから中学生が転落しました。遺書が発見されましたが、文面には『同級生に何度もたたかれる毎日には耐えられません。ごめんなさい』と書かれており日常的ないじめがあった可能性があります。幸い生徒に怪我はなく現在は搬送先の病院にて検査を受けております。また動画投稿サイトYouTubeには、生徒を暴行している姿がアップロードされており、遺書には複数名の生徒と思われる名前も書かれております。学校側と教育委員会の対応が急がれます」
 確かに、中学生は誰にも殺されていない。突き落とされてもいない。
 仮に裁判が起きても殺人未遂犯は出廷しないだろう。なぜならいないからだ。自殺を未遂したのは本人であることに違いはない。
 だが、暴行はどうだろうか。
 いじめ、という言葉の本質の中に暴力がある。
 日常的な暴力、肉体的・精神的であるかを問わない暴力が一体なぜ、いじめなる語調で語られ、犯人は逮捕されないのか。
 方や警察が確認した監視カメラの映像で逮捕され、方やYouTubeにさらされながら証拠能力を疑われる。
 いじめを暴力として立証するのは難しい、などと宣う専門家がいる。彼らは裁判を受ける自由について理解をしていないようだ。立証しようともせず専門家が「やめておけ」では、何のための法律であるか。

 ハラスメント、などと言う言葉で社会悪を一丁前に増やす知識人がいる一方で、自殺の原因が「暴力であった」と端的に締めくくる知識人の少なさたるや。それが、被害者という証言者を失った自殺事件ともなれば、さも「過去は被害者の死をもって清算された」とでもいうように”いじめ”という言葉を使い暴力行為を行った加害者を擁護する。

 言葉は正しく表現されなくてはならない。

 原色の美しさのように、何物にも染まってはならない言葉も確かにあるのだ。あなたたちの身近にある言葉は、本質を持っているだろうか。
 もし、本質のある言葉を見かけたら、本来の意味だけでも思い返してみてほしい。

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