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多様性を殺すマネジメント〜「主体性を持て!」という指示は果たして指示なのか?〜

今回は、僕が部活動に所属していた頃に抱いていた違和感について書きたいと思います。

テーマにあるように「主体性を持て!」といった「心の中のもの」に対しての指示や命令は果たして有効なのかどうか。

これは、「個人の多様性を活かした組織マネジメントの探求」という大きなテーマを掲げて大学院進学を決意した(進路選択については後日書こうかと検討中です)今も、向き合っている僕の中心にある課題意識です。

ざっくりとどんな内容を書かいたのかというと、

まず最初の問題意識としては、
「主体性を持て」とか「やる気を出せ」とか「自信を持て」といったような、その人の「心の中のもの」に対して指示や命令をすることについてです。

そして次に、そうした「心の中のもの」というのは、指示をする側とされる側のズレが生まれやすく、片方が「自分はできている」と思っていても、片方は「あいつはできていない」という状態が生まれ、不信感が生まれるということがふたつめのトピックです。

そして最後に、「心の中のもの」を指示する側も、では実際、自分は相手にどうして欲しいのかという具体的な行動を提示できないため、指示や命令をしたきりになってしまい、責任放棄となってしまっているということです。

この3つの着眼点のもと、「個人の多様性を殺すマネジメント」について、僕自身の経験も交えながら書きました。

では、詳しい内容に入っていきたいと思います。

「心の中のもの」とは?

「心の中のもの」とは、「やる気」「自身」「主体性」「当事者意識」「自発性」といった、人の心の中にある姿勢や状態のことを言います。

それらは、目に見える形で存在するのではなく、個人の内側に存在するものです。

他にはどんな言葉があるでしょうか?

自分のチームでよく使われる「心の中のもの」を指す言葉をいくつか挙げてみてください。

「心の中の状態」に対して指示や命令をすること

次に、ひとつめの問題意識である

「心の中のもの」に対して指示や命令をすること

について考えていきたいと思います。

例えば、先輩Aさんが後輩Bさんに「主体的に行動しろ!」と指示をしたとします。

するとふたりの間には以下のような、表面化していないやりとりが生まれます。

<先輩A>
あいつはいつも言われてから行動を始める。もっと言われる前に行動してほしい!

<先輩B>
自分はいつも言われたことに対して主体性を持って取り組めている。それなのに「主体性を持て!」と言われてしまった。「主体性」って何?

このように、「心の中のもの」に対して指示や命令をすることは、発信者側の期待とは裏腹に、受信者側にとっては混乱を招き、さらに主体性を奪ってしまう危険な行為だと僕は思います。

「心の中のもの」は、それぞれ個人の環境や価値観によって差が出てきます。
しかも、それらは外からは見えないところが厄介です。

このように、「心の中のもの」は外からは見えず、ましてや本人も良く分かっていないことも多いです。

だから、例のように「心の中のもの」に対して指示や命令をすることは、かえって認識のズレが生まれやすい状況を招きます。

「心の中のもの」にフォーカスしてしまうと不信感が増す

次に、2つめのトピックである

「心の中のもの」というのは、指示をする側とされる側のズレが生まれやすく、不信感が生まれやすい

ということについて考えていきたいと思います。

先ほどの先輩Aさんと後輩Bさんの例を考えると、
「Aさんにとっての主体性」と「Bさんにとっての主体性」にズレが生じてしまっていました。

ここで、「Aさんにとっての主体性」とは何かをAさん自身が明確にしてBさんに伝えることができればいいのですが、
僕は自分の「心の中のもの」を明確に・正確に言語化することは不可能に等しい行為だと考えています。

なぜなら自分にとっての「主体性」を明確に・正確に言語化できる人っていますでしょうか?

僕はできません。

それらしい言葉は並べることができるのですが、それが明確に・正確に主体性を表せているのかと聞かれると、自信を持って「はい!」と首を縦に振ることはできません。

このように、「心の中のもの」はたとえ本人であったとしても正確に捉えることは難しいものです。

ましてや「言葉で表現して伝える」となると、なおさら難しいように思います。

だから、なんとなくであっても「自分は主体性を持てている」と考えていたBさんにとって、Aさんの「主体性を持て」という指示は、

「僕を正しく評価してくれないポンコツ先輩」

とAさんに対する不信感を抱いてしまうきっかけとなる可能性があるんです。

このように、「心の中のもの」にフォーカスしてしまったが故に、AさんとBさんは”ズレ”を感じるようになってしまいました。

そして、場合によってはふたりの関係性は崩れていくことにもなりかねません。

「心の中のもの」を指示することは責任放棄である

僕は実際にこのような経験を何度かしてきました(関係性が崩れるまではなりませんでしたが)。

それは、僕は先輩から「もっと主体性を持て」とか「もっと当事者意識を持て」と言われてきました。

しかし、僕は精一杯努力をしているつもりでした。
自分では精一杯主体性を持って、当事者意識も持とうと努力しているのに、先輩はわかってくれないという場面がありました。

逆に主将となった際も、後輩に対して「あいつはやる気がない」と思ってしまったことがあります。

でも、本人は
「自分はやる気があってモチベーション高くバスケに取り組めている」
と考えていたかもしれません。

それをこっちの都合で勝手に「やる気がない」と決めつけてしまうのは、理不尽です。

そして、「何が主体性を持った行動なのか」「何をもってやる気がないと判断したのか」といった判断基準は、僕自身も明確には捉えきれていませんでした。

さらに、そうした「心の中のもの」の定義は、その時、その状況によっても変わります。

このように、「心の中のもの」に対して指示することは、具体性に欠け、かつ「どのように行動するかはあなた次第」というようなニュアンスも同時に伝えることになります。

先輩は「主体性を持て」と言ってくれましたが「主体性を持つためにどのような行動をすればいい」ということは言ってくれませんでした。

代わりに言われたのは「そんなことは自分(たち)で考えろ」でした。

「心の中のもの」に対する指示はある種の責任放棄だと思っています。

僕も人に「もっとやる気を出せ」と言ったことが何度もあります。

でも、「何をもってやる気があると見なすか」は明確ではありませんでした。

まさに責任放棄です。

このことに気づいたのは、部活動を引退してからです。

本当にもったいないことをしてしまいました。

こうした言動は不信感にしか繋がらないので、無意味だったんです。

では、他者を変えようとする際、「心の中のもの」を指示する以外に何ができるのでしょうか?

「心の中のもの」を行動に分解する

結論としては、

「心の中のもの」を行動に分解して伝える

ということです。

つまり、「主体性」という言葉は行動の集積であるという認識を持つ必要があります。

例えば、
「毎回のミーティングで必ず1回以上意見を言う」
「チーム内での自分の役割が明確に言語化されている」
「わからないときはわからないと伝える」
といった行動が全て合わさって「主体性」を形成しているとします。

そう考えれば、「主体性を持て」と指示することはなくなります。

「毎回のミーティングで必ず1回以上発言するようにしてみよう」
「チーム内での自分の役割について俺と一緒に考えてみよう」
「わからないことがあればまずは俺に言ってくれ」
といったように、心ベースの指示から行動ベースの指示へと質が転換してくるはずです。

行動を変えて欲しいなら行動を伝える

まずは、チーム内にあふれている「心の中のもの」を書き出してみましょう。

そして、次にその言葉はどのような行動が集積されて形成されているのか、行動を洗い出しましょう。

イメージは花のブーケです。

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一本一本の花が行動だと思ってください。そして、その一本一本が束になった結果ブーケになる、つまり、「心の中のもの」になるというイメージです。

このように考えると、
指示する際も、何ができていて何ができていないかを明確に示すことができますし、フィードバックを受けた人も、どのような行動をすれば良いのかが明確にわかるため、互いの認識のズレが生まれることはなくなるでしょう。

このように、「心へのフォーカス」から「行動へのフォーカス」へと、視点の置きどころを変えることで、組織内でのコミュニケーションがより活発化し、風通しの良い組織に組織になっていくかと思います。

ぜひ、僕も今後実践していきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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