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【雑記】:近況報告とやりたい事とすべき事;20200603


 私は宙に浮かぶ糸くずを追っている。

 それは空中をふわふわと浮かんで、まるで何かに導かれるかのようにある方向へと進んでいく。

 私はそれを捕まえようとしている。必死に走り、時に立ち止まり、しかし何とかしてそれに手を伸ばす。でもいつも、握ろうとした瞬間にそれはぱっと私の手元より一歩先を行く。手は空を割き、糸くずはそんな私をあざ笑うかのようにまたどこかへとふわりふわり飛んでいく。

 捕まえなければならない、と思う。それが他人にとってはどんなに価値のないゴミクズだとしても、私にとっては何か大切なものなのだ。それを捕まえられたら、私はきっと何かを得る事ができるはずなのだ、観念的な何かを。

 私は宙に浮かぶ糸くずを追っている。



 仕事は、辞めた。二週間前の事だ。

 辞めたというが、実質的にはクビのようなものだ。契約更新を打ち切る空気を感じて、こっちから自主的に辞めてしまっただけだ。どちらが先になろうが、結果は同じ事だ。

 原因は私のミスが続いていた事にあった。集中力が欠如し同じミスを何度も繰り返してしまうのである。在宅ワークだからか疲労だからか(言い訳にはならないが)のせいか、とにかくそれが酷かったので仕事を辞めざるを得ない状況になった。新規事業だったし、質が高い仕事が求められているというのもあった。

 どうしてこんな事が起きるんだろう? ミスは、完全に私の無意識の部分で起きていた。こういう事は人生の中で時たまあった気がする。疲れている時(夕方など)、私の意識から外れたところでそれは起きて、後から見返すととんでもない事になっているのである。

 でも普段はそんなミスを見逃すだなんて事は起きていなかった、はずだ。実際には本当は起きていたのかもしれないが、少なくとも指摘された事は一度もなかった。集中力が欠如しているなんてまさか俺が!?(今まで仕事を頑張ってきたのは何だったんだ!)上司からそれを伝えられた時私は激しく混乱し憤った。これまで私は倒れるほどの思いをして、一体何をしてきたというんだ。こんなに頑張っていたのに、それが無駄だって!?

 だがもう、起きてしまったのは仕方がない。私は仕事を辞める事にした。プレッシャーや疲労で押しつぶされそうだったし、実際、生活をちゃんと送れなくなっていたからだ。何しろ昼休み一時間を全て睡眠に費やさないと耐えられず、また夕方になると身体中のけいれんが酷くなって自分でも治められなくなった。身体中の筋肉が引きつり悲鳴を上げて、仕事が終わると一目散に布団に入って二時間眠った。

 思い返すととにかく病的だったと思う。だから辞めた事は、双方にとって(つまり会社と自分の両方にとって)、良い事であった。もし過去に戻れたとしても私は辞めるという選択肢を選ばざるを得なかっただろう。正直辞めた事は後悔はしているが、そうしなくてはならない状況まで自分がミスし続けたという事実は変わらない。

 この問題を解決するため、私はすぐにかかりつけの精神科に駆け込んだ。何しろ自分の意識の外で起きている事なのだ、手の施しようがない。結果、ストラテラという薬を服用し始める事にした。以前行ったADHD検査では私は陰性だったのだが、曰く「100か0かでADHDを判断するのは難しく、グレーゾーンにある人は沢山いる」との事で、それ用の薬を処方してもらった。効き目はまだ分からない。私の意識の外にあるものを、どうやって認識すればいいというんだ?


 さて、今は仕事をしてないわけだけど、では何をしているかというと、とにかく健康的な生活をするよう心掛けている。毎朝シャワーを浴びて、三食食べて、適度な運動をする。そうして体力を養っていく必要が今の私にはある。それから友達と色々製作とかをしている。とにかく、今の私には「誰かの役に立ちたい」という承認欲求が多くあった。何かを無心に作っていれば、少なくとも今の問題を忘れる事ができるし、何よりゲームばかりしているよりよっぽど生産的だ。
 

 今はただ、穏やかな日々が続いている。だがこんな生活をいつまでも続けるわけにはいかない。生きるためには金が必要だし、金を稼ぐためだけに仕事をするのは私にとってとてもつらい事だ。それ自体が金銭以外の意味を持つような仕事を、私は探さなければならない。それがとても難しい事なのは分かっているが、そうしないと仕事が長続きしないのだから仕方がない。


 私はどんな仕事をすべきなのだろうか。もはや、やりたい事や行きたい業界というのは私の中にはないように思える。というよりは「やりたい事ができる仕事」はこの世に存在しない気がする。何故なら仕事というのは一義的に決められるわけではなく、むしろ複数のタスクの複雑な絡み合いによって生まれるカオスだ。個人個人の願望がそのまま社会のニーズに一対一対応するほど、社会は甘くなかった。
 


 これからの人生は「やりたい事」ではなく「やるべき事」を中心に据えて、生きていかなければいけないのかもしれない。これは偉い事を言いたいだとかそんな意味ではなく、もっとネガティブな意味で、私の中で「やりたい事」というのはもはや喪失してしまったのだ。


 いや、確かに動画製作をしたいだとかこんな物語を書きたいという「やりたい事」はあるのだが、もっと全般的な「俺にはこういう夢がある」「三十までに金を貯めて家を買う」のような、人生の全体における「やりたい事」はもうないと思う。何故なら、そんな事はきっと出来ないだろうという諦めがあるからだ。私はもうある程度歳を取ったし、フリーターで精神病持ちの不能者だ。自分の人生に希望と夢を抱けるほど、もう私は子どもではない。


 だからこれから自分は「何をすべきか」を考えていかなければならないのだと思う。朝寝坊をしてシャワーも浴びず布団でゴロゴロするのは私にとっては「やりたい事」ではあるが「すべき事」ではない。私は苦しくても面倒くさくても毎朝小説を書くべきだし、運動もして体力もつけていかなければならない。


 では何故「すべき事」をするべきなのか? それは未来を良くしたいからだ。未来を良くするとは半年前に書いた話で、要約すると「今よりも良い自分になるために未来を良くする努力を今しよう」という事である(あってる?)。では一体「良い自分」とはどんな状態なのか? 「良い」とは何か? と問われると答えられない。自分にはまだそれが見つけられてない気がする。でも感覚的に、ゴロゴロしてたり家にいてばかりいると息が詰まるし気力も湧かなくなるし、「その状態は嫌だな」と思ったから、少なくともそれは「良い状態」ではないと思う。


 何かを探したいと思う。自分という存在をもっと掘り下げ、ランクアップし、何かを得たいと思う。何かとは糸くずだ。私は宙に浮かぶ糸くずを追っているのである。どこかへ行こうとする糸くずを必死に掴もうとしているのである。いつもそれは捕まえようとするたびにふわりと逃げるのだけど、それでも糸くずを追ってさえすれば、追ってさえすれば、きっとどこかに……。


 糸くずが行き着く先が「とても良い場所」なのか「とても悪い場所」なのか、自分の求めているものが手に入る場所なのかは、分からない。絶対に分からない。でもどこかに辿り着きたいんだ。だから糸くずを追う事を諦めるのは、「良くない」事だと思う。


 死にたくないけど、いつか人は死ぬ。だからせめて、死ぬ間際に後悔はしたくない、絶対に。だから「やるべき事」をやらなきゃ、と思う。そう思えるだけ、私は成熟したのだろうか? 成熟したからといって何が偉いというわけでもないんだけど……。


今回は比喩表現や観念的な話ばかりですみませんでした。
ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。

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