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雑記:最近の生活と「未来を良くしたい」;20191219


 最近の日常は、平和だ。

 仕事がある日は何とか頑張って労働し、仕事が無い日は家に引きこもってゲームをし、時たま思いついたように小説を書いている。たまに暗い気分に陥る事もあるが、そういう時は横になったり何かをして、何とかごまかそうとしている。

 数ヵ月前はひどかった。何にもやる気は起きないし、ゲームすらまともにできないほど頭が働かなかった。薬が合わなくて無気力状態がひどく、また仕事に慣れない日々が続いていたという理由もあるだろう。noteの記事も当時のやつは心身の問題を書いたものが多く、うまく動けない悩みが続いていた。

 頭もうまく動かなかった。どういう意味かというと、本が全然読めなかったし、文章を体系的に書くという事がすこぶる難しかった。例えば小説――つまり物語というものを書こうとした時、脳で想像しようとしてもそれが形にならなかった。

 言葉にはしにくいのだが、自分の場合お話を考えるときは、映画のワンシーンみたいに頭の中に映像が思い浮かぶ。しかし当時は、そういった「ひとかたまりの映像」がとんと思いつかないのだ。何かもやもやしたものを考えようとしても、情報は散乱したままで全然思い浮かんでこない。

 現在、この症状は少しは良くなった。しかし今でも考えがまとまらない事はしょっちゅうある。昔はもっと想像力豊かだった。物語が脳の中でずっと流れて止まらなかった。それは今思えばある種の発達障害的な症状のようでもあった。しかしそのくらい、当時は周りに物語がずっと存在した。今はもうない。あの頃の状態を取り戻せるとは思えない。


 無気力状態からしばらく経って、一か月後くらい、11月くらいか、その頃からようやくゲームはまともにプレイできるようになった。きっと仕事に慣れる、つまり、「ある物事に集中する」という行為に段々と慣れてきたからだろう。

 ただ新たな問題も浮上してきた。それはnoteに書くことが無くなってきたという事である。今まで自分の病気の事を記事にしてきたのが、その症状が無くなり、よって書くこともなくなった。書くことが思いつかない状態になってしまったのである。

 それが良い事か悪い事かは置いといて、そんな「書くことがない」という事は結構自分にとって死活問題であった。アイデンティティ的なものがなくなるし、そもそも書くこととは何か、こんな生活をしてていいのかという悩みが自分の中でずっとあった。ライターのように何かの記事を書いて、それで生活を立てていきたいという気持ちがずっと自分の中にあったのだが、最近は自分の能力に限界を感じ始めていたからだ。


 色々友達に相談したりして、結局一つ分かったのは、自分の能力を育てるべきだという事だった。

 これまで一年ほどか、内定辞退したり就活に失敗したり家賃を払えなくなったり、そういう自分に自信が無くなって、自分はこの社会に適応できないんじゃないか、といつしか当たり前のように考えていた。俺は何にもできない人間なんだ、とずっと考えていた。

 だが、最初から「できる」人間はどこにもいないというのも確かだ。毎日毎日生きるだけの日々は結構心地いい。努力なんかしたくないし休日くらいは一日中ゲームしてたいと常に思う。だがそれでは駄目なのではないか、いや駄目ではないんだ。駄目ではないのだが、その生活はちょっと嫌だなと思ってしまう自分がいた。それが何故なのか、考えを突き詰めると、そういった自堕落な生活では「未来」をよくできないという事がわかった。

 何のために小説やこういった文章記事を書くのか、何のために努力するのか、何のために何かをするのか、その理由は、褒められたいとか創作欲求のためとか、人それぞれだと思う。自分の場合、その理由は「未来をよくしたいから」という事だった。それはつまりどういう事か、「今よりも良い自分になりたい」という事である。そういう欲求が自分の中にある事に、slackで友達とやり取りして分かってきた。向上心、と言い換えてもいいかもしれない。


 正直今の自分は、この向上心を高められていないなとは思う。文筆で食っていくにはそれだけの能力が求められるし、その能力を養うためには毎日やるべき事がたくさんあると思う。それが出来ていない以上自分は現状に甘えていると言わざるを得ない。だが、それでも毎日少しずつ「とりあえず何かやろう」と思う事が、大切なように思える。その一つ一つの積み重ねで、未来は少しずつ良くなっていくからだ。

 なりたい自分になれない。そういう悩みはずっとあるし、これからも抱え続けると思う。ただ、なりたい自分になろうとする事だけを突き詰めると、心身を病むし良い人生とはいえない。それよりも、なりたい自分になろうとする「過程」を楽しみたい、と今は思うようになった。結局自分の能力に限界はあるし、今から頑張れば直木賞作家になれるわけでもない。可能性は0%と言い切ってもいいだろう。だがだからといって自分を責めても、何にもならない。「目標を高く持ってもそれを達成できなきゃ意味がない」と考えても生産的じゃないのである。


 人生は死ぬまでの「過程」だし、過程の中で楽しめなかったら結局損だ。だからといって快楽主義に陥ったら、「未来が良くならない」と思う。だから小説だったりこういった記事だったりを、常に書き続けていきたいと私は考えている。努力するというのは大変に辛い事だが、辛いだけではないのだと思いたい。


ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。


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