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2021/4/13



ビルゲイツって男が人工肉推奨してましたよ。そうして出してきた写真が脳が拒否する程に食べたいと思わなかったので個人的にはあまり食べたくないです。
(追記:何だか最近「大豆が体に悪い!」という人を見かけるが、古くから日本は大豆文化だよ。味噌・醤油・豆腐・にがり・油揚げ……上記の「人工肉にしよう!」だって「大豆使おう!」だけどその所のお気持ちを知りたい。というか別の記事にも書いたけど、どんなに「体に良い」と言われるものでも「使い方」を誤れば体に害のあるものになってしまうよ。そういえばお米もどうのこうの言う人見かけたな……。「添加物が人工物/加工食品が」と言ってるのはなんとなく分からんでもない様な気がしたりしなかったりだけど(悪意ある人間が手を加えれば害のあるものになっちゃうからね。「包丁」と同じ)、食材そのものには凄いな。……みんな食べ物論争大好きだね。食べる物無くなっちゃうね)

人工物が添加物が無添加がと言う割には「人工肉」はOKな人いたり。
僕は多分「人工肉」はお肉として脳が認識しないと思う。カニカマも蟹肉として認識してないもん(あとあんまりカニカマ好きじゃない)

殺す事を容認しているわけじゃなくて、もし将来、「人工タブレット(サプリメントやカロリーメイトみたいな?)の様な食事に全て変わってしまった未来」を想像すると、そういった物で命を繋いでいる者達に申し訳ない言い方をしてしまうけど、気味が悪い。多分、「僕の食文化」ではない。

命を食べて命を繋ぐ。うまく言えないけど、食べる事は今自分が生きていることを再認識する行為の一つというか、好きなものを食べる楽しみや喜び、味覚から「美味しい」と感じる事、食事をして自分の身体を作る事。「食べる」事をして自分の命を感じ取る。

その全ての食事が、「さぁ、何か食べよう!」と思った時に、ポンと出されたものが無機物的な人口タブレットのような食べ物で、「これが食事です」と出されたら、すごく酷い言い方だけど、気持ち悪いとか気味が悪いと感じてしまう。

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人工肉というものを否定するわけでないし、「命を奪え」と言っているわけでなくて、「じゃあ、植物なら良いの?」って。

肉だろうが魚だろうが野菜だろうが、命を食べて命を繋いでいる事には変わりない。
菜食主義者だろうが人工肉を選択しようが、「命を食べて命を繋いでいる」事を忘れてはいけないのでは?だから命を食べている事を思い出す為に「いただきます」があるのでは?

「自然や命を奪うのを辞めよう!」で様々な事を制限していったら、人間は何も出来なくなる。

究極な事を言ってしまえば、「歩行」という行為だって蟻や小さな虫を踏み潰してしまっているかもしれない。それが無いに越した事は違いないけど、それに配慮しすぎたら人間は動けなくなってしまう。
物を作るのにだって材料がいる。自然の中から植物や鉱石、生物の助けも必要だろう。家を建てるのにも場所が必要。そうなると着る物や住む所も作れなくなる。

人も動物も自然も、「みんな」世界の中で助け合っている。みんなで世界を造り上げている。

だからと言って無下に、そして無駄に消費して良い事でもない。
自然や動物達を守ってほしいし、命を大切にしてほしい。多くの食べ物を無駄にしたり、まだ使えるのに少し使っただけで捨てたり、物を無駄に消費していくのをやめてほしい。

ただ、僕がそうしてほしいなと感じるのはそういう事であって、「その代わり人間を制限しよう!」では無い。というかそれは、胸くそ悪い彼奴等がしようとした事と変わらないだろう。

「動物が可哀想」と思って、菜食主義や人工肉を選ぶ人も、「他者に考えを押し付けていないなら、好きにすればいいんじゃない?」と僕は思う。

だけどそれをしたり、人工肉というものを作る中で、「命や何かを作る為に消費したものに感謝する」という事を忘れてはいけないと僕は考えてる。「代替肉」だって、結局「大豆」というものを消費しているからね。


みんな世界の中で助け合っている。感謝する事を忘れたら人間は終わりだ。
僕が正しいとかでなく、今「僕はそう考えている」というだけだし、言いたい事がうまく伝わっているかも分からない。だから多くの人其々が食事に対して「自分はどう思うのか」を考える事をしてほしい。


追記
「キノの旅」の肉食と魚食で争っている人達の話を思い出した……。「動物が可哀想でしょ!」「魚が可哀想でしょ!」って。結局、何かに優劣つけて「それはOK」ってしてるだけじゃん……。

「動物が」と言う人は魚や植物は可哀想ではないのかな?純粋な疑問。





カニカマを蟹だと思って食べる人居るんかな?仮に人工肉が主流になったとしても、多分僕はそれを「肉」としては認識しないと思う。だってカニカマはカニカマなんだもん。人工肉だって生物の肉ではなく、大豆やらなんやらの素材から出来た「人口の肉」なんだもん。トマトで作られたそれもトマトで作られた「魚肉ではないもの」だよ。

あとやっぱり疑問に思う。
ベジタリアンなどの菜食主義の人は「野菜や植物」は命に含めないのかな?分かり易い感情が見えなければOKなのかな?非難している分けでなく、どういう風に考えているのか疑問に感じる。「美容で」というのはその人の「目的」としての理由で何となく納得できる。「動物が可哀想だから」だと僕の中で疑問符が浮かぶ。「ん?植物は?」「植物だって生きているし、人間が感知しづらいだけで感情があるかもしれないよ」って。

僕自身は肉だろうが魚だろうが植物だろうが、命食べて命繋いでいる事に変わりないと思う。虫食ってようが土食ってようが石食ってようが、人間からして感情や命が認識しずらいだけで、もしかしたらあるかもしれないじゃん。水だってそうだ。「人間が分かっている事」なんて世界からしたらとてもとても小さく、塵よりも小さい。結局僕の中で「命食べて命繋いでいる事に変わりない」って結論になる。


カニカマ何処までいってもカニカマ、蟹肉には成りえない。
「自然物」から「人工」になれば、「中身」に「細工」しやすいからな。

自然の中では植物だろうが魚だろうが生物だろうがどんなもの達だって捕食者だ。だからって人間がどんなことでもしていいとかでなく、大事なのは「食べれる事に感謝してなるべく無駄にしない」なのではないか。一度聞いてみたい。「植物の命を食べる事には抵抗はないのか。人間が感じ取れないだけで刈り取る時や調理するときに叫んでいるかもしれないだろ?目に見えて分かり易く感情が見えなければOKなのか?」

そんなに自然の世界のように「命を食べて命を繋ぐ」という事をしたくないなら霞でも食べて生きてればいいのでは。