【13】レイズ・ザ・シャンパーニュ!?
けっこう前にニュースになったと思うが、バルト海で沈没していた船から、170年前のシャンパーニュが見つかった。
おそらくロシアあたりに向けた交易品だったのだろうが、海の底にあったので、人の手に渡るのが170年も遅れてしまった、ということになる。遅刻するにもほどがある(笑)。
シャンパーニュの海底熟成!?
先のコラムと、『世界の名酒事典 2018年版』のカラー写真入りのトピック記事の中に、この発見をきっかけに計画されたという、瓶詰のシャンパーニュを海底で熟成させてみよう、という試みのスタートと、その途中経過が紹介されていた。
その試みを行なっているのは、実際に170年海底にあったシャンパーニュの蔵元「ヴーヴ・クリコ」。
2014年から50年間(!)、同じシャンパーニュで通常の熟成と、海底での熟成を行ない、3年、5年ごとに同じ熟成年数のものを取り出して香味の比較や熟成により変化する各種成分の「分析」を行なおう、という、なんとも遠大な「実験」なのであった。
『世界の名酒事典 2018年版』には、熟成開始から3年、海底から引き上げた初めてのサンプルの試飲をしたレポートが載っていた。
その試飲の結果では、同じシャンパーニュを地上で普通に熟成させているものと比べると、香味はよりフレッシュで「熟成がゆるやか」という推察がなされていた。
海中で空気(酸素)がほぼシャットアウトされていることと、バルト海の海底の水温が低いことから、通常の熟成で緩やかに起こっている酸化反応があまり起こっていない、ということのようだ。
さて、これは、沈没船のシャンパーニュに触発された新たな試み、ということだが、実際に引き上げられたシャンパーニュについては、詳細に分析され、論文になっている。
同じ船内からは、シャンパーニュより数は少ないながら、ビールも見つかっており、こちらも同様に分析されている。
だいぶ前に、それらの論文の現物を読んでみた。
今回は、「科学者」が行なう「分析」でどんなことがわかるのか、その実例として簡単に紹介してみたい。
1840年代のびんビール
https://pubs.acs.org/doi/epdf/10.1021/jf5052943
(無料公開論文なので、現物がリンクで読めます)
論文タイトル:Analysis of Beers from an 1840s’ Shipwreck
(1840年代の沈没船から回収されたビールの分析)
著者:J. Londesborough, M. Dresel, B. Gibson, R. Juvonen, U. Holopainen, A. Mikkelson, T. Seppänen-Laakso, K. Viljanen, H. Virtanen, A. Wilpola, T. Hofmann, and A. Wilhelmson
掲載誌:J. Agric. Food Chem., 2015, 63, 2525-2536
ビールの方の論文はフィンランドとドイツの研究機関の共同研究。
沈没船の船倉には交易品の一部として150本以上のシャンパーニュがみつかり、他に、当時のビール瓶のような形をした瓶も5本みつかった。
そのうち1本がダイバーの乗る船の上で破損したのだが、もれ出た液体は泡立ち、どうやらビールらしいとわかった。
ということで、残る4本のうちの2本を分析してみたのがこの論文。その結果からは…
◆ ナトリウムとカリウムの含量、およびアルコール濃度から、海水の侵入で元の液に対して1.3倍くらいに薄まっていると考えられた。
◆ 液の色は薄めで、今の日本の普通のビールと同程度。
◆ ビールに含まれているはずの麦芽由来の蛋白質が微量で、微生物により分解、消費された可能性がある。
◆ 試飲ではオフフレーバー(劣化臭)的なコメントが多く、においの特徴からも微生物汚染が考えられた。
◆ 有機酸の分析では、片方のサンプルで乳酸や酪酸が極端に高く、こちらのサンプルは特に乳酸菌が繁殖していた可能性が高い。
◆ 糖の分析では、酵母が発酵できないマルトトリオース(ブドウ糖が3個つながったもの)よりマルトース(ブドウ糖が2個つながったもの。いわゆる麦芽糖)の方が多く残っていた。酵母の発酵力が弱かったと思われる。
◆ ホップの苦味成分の量は2本の間で大きく違い、その他の分析値からも、別々のビールだったことがわかる。
◆ ホップに由来する成分のよりくわしい分析から、使われたホップは麦汁を煮沸する初めの方で添加されたこと、および、当時使用されていた原料ホップの苦味成分は現代のホップより少なかったことがわかる。
◆ ヴァイツェンビールの特徴香の成分はほとんどなく、使われていた酵母はヴァイツェン酵母ではなくラガー酵母かエール酵母と考えられる。
……という訳で、海水で薄まっているは、微生物汚染されているは、で、あまり飲んでみたくなる代物ではなかったようだ(笑)。
とはいえ、「分析」の結果からは、170年前にビールの醸造に使われていた原料のホップや、酵母の種類、その発酵力、さらには微生物汚染の状況などが、ある程度までは推理できる。
パスツールが、腐敗や発酵が微生物によることを明らかにしたのは1860年代のこと、1840年代となると、まだアルコール発酵が酵母によって行なわれていることも、ビールの腐敗が乳酸菌等の微生物によるものであることもわかっていない。
酵母の純粋培養法もない時代、発酵力の高い酵母を選抜するようなことも、まだ行われていなかったはず。
パスツールによる殺菌法(いわゆるパストリゼーション)も確立されていないので、微生物汚染にもあまり強くない。
アルコールも低めだし、麦芽糖が残っているのでけっこう甘い、当時のビールはそんな飲み物だったことらしいことは記録からもある程度わかっていたが、「現物」の「分析」でも裏付けられたことになる。
1840年代のシャンパーニュ
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1500783112
(こちらも無料公開論文なので、現物がリンクで読めます)
論文タイトル:Chemical messages in 170-year-old champagne bottles from the Baltic Sea: Revealing tastes from the past
(バルト海から回収された170歳のシャンパーニュボトルからの化学的メッセージ:過去からの味のベールをはがす)
著者:P. Jeandet, S. S. Heinzmann, C. Roullier-Gall, C. Cilindre, A. Aron, M. A. Deville, F. Moritz, T. Karbowiak, D. Demarville, C. Brun, F. Moreau, B. Michalke, G. Liger-Belair, M. Witting, M. Lucio, D. Steyer, R. D. Gougeon, and P. Schmitt-Kopplin
掲載誌:PNAS, 2015, 112, 5893–5898
ビールの方のコルク栓には何の情報もなかったが、シャンパーニュのコルク栓にはブランドが刻印されていたので、銘柄と、おおよその年代がわかった。
こちらの分析は、主にシャンパーニュの本場のランスやドイツの研究者の混成チームで分析されている。
読んでみると、ビールの方の分析とはアプローチがだいぶ違うのが面白い。
考察も、シャンパーニュの製造工程に沿って展開されていて、随所にひもといた当時の記録との照合なども織り交ぜられていて、読み物としてはビールの論文よりだいぶ面白い。
◆ 鉄イオンと銅イオンの含量がかなり高い。
鉄の方は、樽の燻蒸で治具の鉄が酸化されたところから、銅イオンは、当時既に使われていたボルドー液に由来すると思われる。(「ボルドー液」という名前になるのは1880年代だが、それ以前から病害予防に硫酸銅をまくことは行なわれていた、とのこと)
◆ 金属イオン、ミネラル分の含量が高いことから、果皮に含まれる/付着していた成分の比率が高いと思われる。当時のぶどうの糖度が低く、粒も小さかったためだろう。
◆ アルコールが現代のシャンパーニュより低く(<10%)、アルコールを増やす目的での補糖はおこなわれていなかったと考えられる。
◆ 木に由来する成分が検出されるのは、当時の発酵が木樽で行なわれていたためだろう。
◆ ビール同様、海水の影響をナトリウムなどの分析で調べているが、分析した中に明らかに海水の入り込んだものと、さほどでもなかったものが混在していた。
それでも、現代のシャンパーニュと比べると、ナトリウム含量はかなり高い。どうやら、当時シャンパーニュの澱下げに使われていたゼラチンに食塩が含まれていたので、当時のシャンパーニュの食塩含量はもともと高かったようだ(!)。その食塩含量から、澱下げは2~3回(!)行なわれていたと思われる。
◆ わずかに濁ってはいたが、その濁りの中に酒石酸の析出物はなかった。カルシウムやカリウムの含量からも、酒石酸の除去が行なわれていたと思われる。
◆ 糖は140g/L以上含まれていた。
現在、もっとも甘いシャンパーニュは「50g/L 以上」と規定されているので、その3倍程度。記録によるとこれは、当時のフランス、ドイツ向けのレシピだったらしい。むかしのシャンパーニュはすごく甘かったのだ。
◆ 有機酸の分析では、微生物汚染の指標となる酢酸が低く、微生物安定性が高かったことが伺われる。
先に紹介したリンク先のコラムでも、実際に現物を飲んだ筆者の、170年前のシャンパーニュは甘かった(ロシア向けだからかも)、とのコメントがあるのだが、この論文に引用されていたヴーヴ・クリコの記録との比較では、これでもロシア側からの注文(300g/L(!))の半分しか糖が入っていない。
なんでも、ロシア貴族の食卓にはワインにいれるための砂糖が常備されていて、赤ワインだろうがシャンパーニュだろうが、砂糖をどばどば入れて飲むのがロシア流だったとか(!!!)。
とはいえ、ビールと比べると、かなり念入りに手間をかけて製造されており、その分、品質の安定性もビールよりだいぶ高かったようだ。
あるいは酒でいっぱいの海?
よくよく考えてみると、科学的にはパスツール以前、歴史的にはナポレオン3世以前につくられたビールやシャンパーニュの現物を分析できるなんて、なんともロマンを感じる話で、同じく酒類を研究テーマにする「科学者」にとっては、ちょっとうらやましいかも。
世界には、まだこんな沈没船が眠ってたりするのだろうか…?