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哲学エッセイ「お誕生日おめでとう?」

32歳になった。
久しく会っていない友人知人から届く祝いの言葉を嬉しく受け取る。
何か特別なことをしたくなり、スーパーマーケットで4合瓶の日本酒を買った。
3合ちょっと飲んだところで飲酒欲よりも睡眠欲が勝り、一晩で空けられなくなったことに加齢を実感する。

ところで「誕生日」とは何だろうか。
どうして「誕生日」を祝ったり、特別なことをしたくなったりするのだろうか。
その昔この国では「誕生日」ではなく、正月に皆揃って「年取り」の儀式を行って加齢を祝っていたと聞く。
ならばきっと「年齢が加算される」ことを祝う習慣が昔からこの社会に存在し、その節目が現在は「誕生日」とされていて、その習慣が私にも染みついているのだろう。
ではなぜ「年齢が加算される」ことを祝うのだろうか。
そもそもなぜ「年齢」を数えようとするのだろうか。
「年齢」って何だ。

「年齢」は、その人の判断力を測る指標として使われている。
法律では満18歳で成人となり、単独で様々な法律行為を行えるようになる。
「おとな」と呼ばれるようにもなる。
満25歳になれば国会や地方議会の議員にも立候補できる。
判断力が身に着く早さなんて人それぞれだろうに、一律に「年齢」で区切る。
きっといろいろな区切り方を考えた上で、それが最も合理的だからなのだろう。
長く生きていれば、それだけ経験したものの量は増えていく。
楽しい事、つまらない事、嬉しい事、嫌な事。
うまくいったり、いかなかったり。 人に喜ばれたり、人を傷つけたり。
そうした経験の量を、判断力の担保としているのではないだろうか。

長く生きてたくさんの物事を経験するのは、面白い事だと思う。
できれば忘れてしまいたいと思う経験も含めて、人生は面白い。
何で面白いと思うのかはまだよくわからない。
長く生きている大先輩のお話は、いつも面白いなあと思って聴いている。
エンドレスリピートが始まったら聞き流すけれども。
生きていて面白い経験が増えたこと、大いに祝おうじゃないか。
長寿の節目でも、1年ずつでも。
毎日だって良いかも、と思ったけれど、それは疲れそう。

何はともあれ。
お誕生日おめでとう。


※ このエッセイは、哲学プラクティス連絡会第9回大会 (2023年11月18日) で行われたワークショップ「哲学エッセイを書いてみよう」に参加して書いた文章を加筆修正したものです。


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