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建築学校の環境でインタラクションデザインを学んでいて感じたこと(デザイン留学Advent Calendar 2019, 12/11)

しばらく間隔が空いてしまってとっくにクリスマスが過ぎてますが、このままちょっとずつ24日分書いていこうと思います。。

11日目分は、10日目分の補足で「建築学校でインタラクションデザインを学んでいて感じたこと」についてです。10日目に書いた所感とだいぶ被りますがご勘弁ください。

建築学校独自の保守的な文化

先日も書きましたが、私が進学したMArch Design for Performance and InteractionはBartlett School of Architectureという建築学校の中にあります。とはいえ、やっていることは建築の領域からだいぶ離れていて横断的ですし、同じキャンパスにはUCL(Bartlettのさらに親)のコンピュータサイエンス系コースなども入っているような環境です。講師陣もある程度リベラルな視点を持っていると思います。

ただ、Crits(講評会)をはじめ教育方針やコース内の文化など基盤には建築領域の考え方が深く根付いていました。Webエンジニア出身の自分には、しばしばそれが柔軟性に欠けていてインタラクションデザイン系のプロジェクト進める上では障害になっているように感じました。

見た目の美しさ優先な思考

建築・空間系出身のクラスメイトの一部はCritsのたびにビジュアルデザインの凝った成果物を作って見せていました。前の成果物からの改良案のはずなのですが、私には見た目を意識し過ぎていて毎回Critsのたびに前作と本質的な繋がりの薄い「綺麗な単一の作品」を作り直しているように感じられました。そのループから抜け出せないプロジェクトは、最初の作品と同じクオリティの作品を量産してコースを終えてしまっているように見えました。

使用ツールに対する盲目的な制約

同様に使用ツールなどにも見た目を重要視して制限を盲目的にかけているように感じました。

例えば、コース終盤で動画のストーリーボードの草案を共有したときのことです。クラスメイトのほぼ全員がKeynoteを使っていました。私だけエクセルを使っていたら、「なんでお前はそんなソフト使ってるんだ。もっと適切なソフトを使え」的なことを指導教員の一人にボヤかれたりしました。クラスメイトからもいろんな意味で驚かれたようです。個人的には、シーンの繋がりや構造、一覧性を確認するのにスライド作成ソフトが適切なのか疑問だし、コミュニケーションに使えるものを使っただけでした。

こういったことはとても表面的なことだと思いますが、柔軟性に欠けた保守的な側面が建築分野の環境には多少あるのかと思います。そのことが、フレキシブルにプロジェクトを進める上では支障になっているのではないかなと感じました。

ただDfPIに限らず、ロンドンのデザイン系Masterコースは自主性を重んじています。基本的に自分なりの考え方・進め方でプロジェクトを進めらる(というか進めなければならない)ので、周りに流されず自分で考えて使える外部からの情報は取り入れながらプロジェクトを進めていくことが大事だと思います




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