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「やさしい性悪説」のススメ

あなたは性善説、性悪説のどっちを支持しますか?

僕は断然、性悪説派です。なぜかというと、「性悪説」って一見いやな言葉面をしてますが、けっこう優しい考え方だと思っているからです。

ということで今週は「性悪説がなぜ優しいのか」を少し掘り下げてみようと思います。

※もちろん性善説派の方の考えを全否定するつもりはありませんし、どういう根拠でそう考えているのかにも興味があるので、よろしければコメントください。

性悪説のホントのところ

まず、辞書に載っていそうな基本的な定義に念のため触れておこうと思います。

性悪説とは、「人間の本性は悪である」という考え方です。見たまんまですね、ハイ。ちなみに、こちらは中国の思想家・荀子(じゅんし)の唱えた思想です。

これに先立ち、孟子(もうし)は性善説を唱えていました。言うまでもなく、性善説とは「人間の本性は善」ってことです。

ただ、性善説の難しい所は、人間に悪が備わっている理由の説明が苦しいところ。同年代の告子(こくし)という思想家には「そもそも本性って何だよ!人間の性に善も悪もないっしょ!」と突っ込まれたりもしています。これを「性無記説」と言うみたいです。


そもそも、本性って何でしょう。ここでいう本性とは、「人の生まれつき」のことです。しまいには「人によっては生まれつき善な人もいれば悪な人もいる」ということを言い出す人も出てくる始末。何だかもう訳が分からなくなってきますねw

…なので、正直に言います。性善説、性悪説、性無記説…どの考え方も正しいんです。スタート地点をどこに設けるかの違いだけだからです。

ただ僕の場合は性悪説に立ってますよ、というだけの話です。「人間ってどちらかというと自然に任せていたら悪い方に傾きやすいよね」というニュアンスで解釈しております。

僕の性悪説①:自分にブレーキをかけるもの

さて、僕の性悪説の捉え方についてひとつまとめてみます。

僕の思う性悪説とは、相手の心根が悪いものだとつねに疑ってかかる、というものではありません。

言いたいのは、人は堕落もするし、ちょっとしたきっかけで道を外しもするものだということです。そしてこの事実を、自分に対して常に自覚していたいということなんです。

もちろん、人間には善悪両方の素養がありますし、教育によって良い方向に向かうことはいくらでもできます。ただ、前述の通り良い方向に向かうにはそれなりの努力が必要なのに対して、良くない方向に向かうのは結構ラクですよね。

僕自身、家族ができて多少はまともになったものの、たまにひとりで家で過ごすようなことがあるとだいぶ生活がだらしなくなりがちです(昼はささっとインスタント食品で済ませてしまったりとか、ちょっと長めの昼寝を平気でしてしまったりとかw)。

そんな時、「人はつくづく自分の為に頑張るということが苦手な生き物だな…」と感じます。

逆に、どんなにズボラな人間であっても、家族がいれば家族のためにここまでは頑張らなきゃいかんよな…とか、カッコ悪いところは見せられないわな…とかいった心理は多少働くじゃないですか。キツいことがあっても、親であったり家族であったり、身近に関わる人の存在が「あと一歩踏ん張る原動力」になったりするもの。

逆もしかりです。自分だけの欲望のためにお金を稼ぎたいとか社会的地位を高めたいとか、自己の承認欲求だけで人はまっすぐ走り続けることなど難しいのです。やはり易きに流れてしまいたいという気持ちに対する抑止力になるのは、周囲との関係性だと思います。

僕の性悪説②:周りに優しくなるためのもの

性悪説に基づいて行動することによって、周りの人に寛大になれるー
これもひとつの重要なポイントだと思うんです。

もし他人が自分の期待通りの行動をとってくれなかったとしても、期待どおりの成果をあげてくれなかったとしても、必要以上に落ち込むことはなくなるわけです。

というかそもそも、そんな身勝手な期待を周りにかけること自体がなくなってくるわけですよ。

もし、相手に圧倒的に何か欠けたところがあったとしても、「自分がもし相手と同じような境遇だったら同じようになっていたかもしれない」と考えることにすれば、そこまで心がざわつかなくなるのではないでしょうか。

「歎異抄」でも書かれているように、極端な話、どんな人でも置かれた境遇によっては、一歩間違えれば犯罪者にだって殺人者にだってなりうるわけですからね。

たとえば、会議に遅刻する常習犯がいたとします。社外の方との面会ならまだしも、社内の打ち合わせレベルであればそこまで気にすることもないと思います。なぜなら、あなた自身が断罪しなくても、すでに周囲の信頼は地に落ちているからです。彼が遅刻しているまでの数分間で他の参加者との親交を深めるもよし、ちょっとした作業を手元で進めておくもよし。

一見、冷たい考え方に見えるかもしれませんが、僕はそれでいいと思っています。いつかクリティカルな状況に直面し、腹の底から改善が必要であると感じたとき、彼は遅刻をやめるかもしれないからです。逆に、今ここであなたが厳しく遅刻を指摘したところで、数分後には彼は反省した気持ちを忘れます。

それに、言ってしまえば、そこまで彼の人生にあなたはコミットする必要はないとも思うのです。当然、見過ごしてはいけないポイントがあれば話は別ですが、仕事の進め方の細かい部分にまで常に目くじらを立てる必要まではないと思います。そういった「箸の上げ下ろし」にまで口を出されると、人はかえってパフォーマンスを落とすからです。目指したい結果とイメージをきちんと伝えたら、プロセスはお任せするのが良きです。

前述の遅刻魔の話に戻りますが、遅刻って本当に完治不能な病気のようなもので、忘れたころにポンと再発するんですよね。その時は反省しても、また数か月後にはやってしまう…何人かそんな人を見てきました。

僕よりも要領も良くて頭がキレる先輩も、遅刻だけは治りませんでした。彼はいまだに時給制のアルバイトです。あれほどの能力があったら、僕よりも稼いでいてもおかしくないと思いますが…周囲からの心からの信頼だけは勝ち得ることができていないわけです。それもまた、彼の選んだ道なんでしょう。

他人に必要以上に勝手に成果や改善を期待するよりも、期待をかけるべきは自分自身。他人の細かい言動をとやかく言うのではなく、自分のそれをよりよいものにしていくことに努力を傾けた方が良い。僕はそう思うのです。

最後にもう一度。
あなたは性善説・性悪説、どっち派ですか?


さて、今週も頑張りましょう!


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