エリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか 山口周著 ビブリオエッセイ

「無駄だと思ったことが、何よりも大切なことだったのかもしれない。」

                           美術館も博物館も、庭園も、神社仏閣も、歴史ある街並みも、自然が繰り広げる情景も好きだ。

それなのに、時間が勿体無い、お金が勿体無いと勿体無いお化けに脳みそを侵食され、それは贅沢なことと切り捨ててきた。

第五章 受験エリートと美意識
「偏差値は高いが美意識は低い」
の、項が頭から離れない。
当時、オウム真理教の教団幹部たちの経歴を知って驚いた。
なぜ、これだけの高学歴の人々が、あんなだらしなく精細さのかけらもない男に憧れて、崇めて、泥沼にはまっていったのか不思議でならなかった。

美意識とは無縁な男に憧れ、秩序のかけらもない環境で、ひたすらに上の階級を目指し勝ち上がっていくことで、自分の存在価値を得ていく。
確かにそれは、全てを勉強に捧げ、偏差値だけが、達成感を持てる受験勉強と同じシステムだ。そこに美意識は存在しない。

もし、彼らが美意識を持てる環境で育っていたら、あんな男に憧れを持たず、整然さが全くない施設内の情景にうんざりしたに違いない。
そして、リンチやサリン事件に加担することはなかったんじゃないか。
美意識には、美しいものは美しいと感じ、心を豊かにするだけでなく、美しくないものに拒否反応を感じるセンサーの役割もありそうだ。

私事で言えば、長い間、仕事と家計の狭間で、自分の贅沢は勿体無いと思い込んできたようだ。
そのために捨てた物は、少なくないように思う。
今でも、仕事と家事に追われる日々が続くと、脳みその稼働率は下がり、ひたすらに労働をこなすだけになる。

美意識を意識した時間が、より仕事をクリエイティブにするはずだ。
すぐそこに広がる田園風景の中を散歩する、大きな空を見上げる、美しい生地の雑誌を広げる。
お金や時間を改めてかけなくても、日々の暮らしの中で、小さな美意識を持つことはできるじゃないか。
私自身の心にゆとりあれば、風に揺れる木々の葉にも、ベンチに座る女子たちにも、美しいなぁと思う気持ちがほんわりと浮かぶのだ。

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