【掌編小説】 帰り道は、黒猫と。

猫を拾った。
ひどく汚れた猫で、尻尾なんか靴紐のように細く、痩せこけていた。

「お前も、帰るところがないのか?」

先ほど買った割引シールの貼られた惣菜とビールは、この猫には食べられないだろう。

「ミルクがいいかな。普通のツナ缶でも食べるのかな」

生憎、俺は生き物を飼った経験がない。
物語では、痩せこけた猫に温かいミルクをやったり、肉を食べさせたりしているのを見たことがあるが、果たしてそれでよいのだろうか。

「とりあえず、俺の秘密基地に行こうか」

猫の体は小刻みに震えていた。
今にも風に飛ばされてしまいそうなほど体が軽いので、そうならないようしっかりと胸に抱え込んだ。

しばらくすると、ほんのりと猫の体温が伝わってきた。

温かい。
自分以外の体温を感じるのはいつぶりだろう。

「こんなところで悪いな」

秘密基地といっても、会社以外で寝泊まりする時に使っている安いアパートだ。
寝に帰るくらいで、殆ど使っていない。

最後に布団で寝たのは、いつだったかな。

「ちょっと埃っぽいが、これで我慢してくれ」

布団をまるめてくぼみを作り、その中に猫をいれた。
猫は小さな声で「ミィ……」と返事をしたようだった。

確か、近所に小さなパックの牛乳を売っている自販機があった。

往復で五分もかからない距離だ。
猫は眠っているようだし、今のうちに買いに行こう。

買ってきた牛乳をカップに移して、レンジで人肌に温めた。
そういえば、このカップは一人暮らしを始めた時に母にもらったものだったか。

母とは、しばらく会っていない。

カップもしばらく使っていなかったし、母のことを思い出しもしなかった。
とんだ親不孝者だ。

「飲めるか?」

カップのまま猫に飲まそうというのは無理な話かもしれないが、ちょうど良さそうな入れ物が他になかった。

匂いを嗅ぎつけた猫は、傾けたカップの端に頭を入れ、器用に牛乳を飲んだ。
時折、滴がはねて毛についた。

「風呂にも入ったほうがいいな」

猫は黒い毛に飛んでいた白い飛沫を舐めて何事もなかったかのような顔をしている。

「あれ、お前。なんだか、少し毛並みが良くなったんじゃないか?」

牛乳を飲ませただけなのに、靴紐のように細かった尻尾も少しふんわりした気がする。
温まったせいだろうか。

「俺も今から風呂に入るのは正直しんどい。明日にしようか」

猫は床に放り出されたスーパーの袋を見ていた。
つまみに買った惣菜とビールが入っている。

「食べるのか?」

じっと見つめてくるので、蓋を開けて近くに置いてやった。
何度か匂いを嗅いだ後、やや空振りするように口を大きく動かしながら猫は惣菜を平らげた。

「お前、初めて見た時は、もっとみすぼらしかったと思ったが」

今では、普通にそのあたりで飼われていそうな猫の外見だ。
疲れていたからそんなふうに見えたのかな。

「悪い。俺はもう、寝かせてもらうよ」

ベランダの戸をすかしておいたので、もし、行きたいところがあれば勝手に出ていくだろう。

どうにも瞼が重いんだ。
これほどの眠気に襲われたのは久しぶりだ。

いつもは酒を飲まないと眠れないのに。
慣れないことをしたから疲れたのだろう。

「おやすみ」


翌朝。
目を開けると黒猫がいた。

猫は、俺が起きたのを確認すると玄関に向かって走って行った。

「もうすっかり元気だな。大したことはしてやれなかったが」

そんなことはどうでもいいといった顔で、玄関の扉と俺を交互に見る。

「律儀な猫だな。別にどこを通っても構わないんだぜ」

そういってベランダを指してみたが、一向に玄関から離れようとしない。

「わかったよ。ちょっと待て」

寝床から体を起こしてみて気がついたが、いつもより随分身体が軽い。
酒を飲まずにいつもより早く寝たせいだろうか。

「ほらよ。……え?」

扉を開けた先には、懐かしい景色が広がっていた。

子供の頃、ボールをぶつけて遊んだ塀や甘い香りを楽しんだ金木犀。
振り返ると、メダカを捕まえた用水路と遊びで足を突っ込んで靴を取られかけた田んぼがあった。

「俺、まだ夢を見ているのか?」

実家だ。
間違いなく、俺が子供時代を過ごした場所だ。

「あら、おかえり」

声のしたほうを見なくてもわかる。
これは、母の声だ。

「……母さん」
「どうしたの? 帰ってくるなら連絡くれればよかったのに」
「ごめん」
「いいのよ。最近、電話も繋がらないから心配してたの。元気だった?」
「……うん」
「ちゃんとご飯食べてるの? 夜ふかししてない?」
「……うん」
「無理しちゃダメよ」
「大丈夫。してないよ」

思わず声が震えた。

「今日はご馳走にしなきゃね。まだまだ若いんだから、お肉もいっぱい食べなきゃ! バランス良くお野菜もね。あ、金平牛蒡も作るから安心してね。それとーー」

「おまえ、誰と話しているんだ?」

「なにいってるの、お父さん。あなたの息子が帰ってきたんですよ」

縁側に腰掛けた母の視線の先には、誰もいない。
黒猫が一匹、礼儀正しく座っているだけだった。

ごめん、母さん。
せっかくだけど、大好物の金平牛蒡ももう食べられそうにないや。

黒猫が立ち上がった。
俺は、あれについて帰らなければならない。

「最期に会わせてくれて、ありがとう」

満足そうに喉を鳴らした黒猫を追いかけて、俺は旅立った。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?