【短編小説】 翼の生えた妹
「鳥の頭を食べたら、翼が生えるって本当?」
僕の妹は、時々、変わったことを言う。
「そんなことで生えてくるわけないだろう。そもそも、頭のついている鳥を食べたことがあったかい?」
「……ない。どうして、鳥には頭がついてないの?」
「必要なくなったからだよ。今日はもう寝なさい」
「寝たら翼生えるかな」
そんなものは、生えなくていいんだ。
喉元まで迫り上がってきた言葉をぐっと飲み込んで、僕は横向きに寝ている妹の何も生えていない小さな背中をポンポンと撫でた。
「翼があったら寝る時に邪魔だろう。さあ、早く寝なさい」
「うん。おにいちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
無防備に開いた唇から規則正しい吐息が溢れ始めたのを確認すると、妹を起こさないように、そっと扉を開けて僕は自分の部屋に戻った。
夜は長い。
僕は、眠ることを忘れた。
今でもよく覚えているのは、背中の疼くような痒みを我慢して眠った翌朝、いつものように寝相の悪さで蹴飛ばしてしまった布団を見ながら、不思議と寒さを感じなかったことと首と肩にのしかかる感じたことない痛みと重さだ。
僕の背中には、翼が生えている。
あの日以来、僕は眠ったことがない。
御伽話に出てくる天使のように真っ白な翼は、見てくればかり綺麗なだけで、僕を空へと導いてくれはしなかった。
初めは翼の生えた僕を褒めてくれた両親も、しばらくして僕が飛べないことがわかると「気持ちが悪い」と同じ血をわけた妹のことも罵り、僕たちを捨てた。
僕の翼を珍しがって面倒を見るといってくれた人たちの言葉に甘えて、この小さな家で、妹とふたり、暮らしている。
近々、この家で暮らすのは妹だけになる。
定期的に僕の羽根を数枚渡す対価に、この場所と食事を与えてもらっていたけれど、成長するにつれ少しずつ黄ばみだし、所々羽弁が抜け落ちるようになった僕は、このままだと価値が下がる一方であることから、ある提案をされた。
「できるだけ早いうちに君の首を落として、剥製を作りたい。綺麗なまま残せるほうが君も嬉しいだろう。君の妹の面倒は、責任を持って我々が見るよ」
僕は、この羽のせいで、一般的な職にはつけない。
妹を養っていくことはできない。
でも、
「それなら、翼だけ切り落として剥製に……」
「何を言っているのだね? 人間の身体から翼が生えているのが面白いんじゃないか。ただの大きな翼に興味はないよ。君の顔にもね」
部屋のそこかしこから漏れ聞こえる含み笑いに耳を包まれ、充満した紫色の煙に目をやられた僕は、顔を伏せた。
身体の内側から外へ溢れようとするものを押さえ込み、腹を抱えてその場に膝をつくことしかできなかった。
この籠の中で妹を生かすためには、僕がこの人たちに従うしかない。
最善の道だと自分に言い聞かせ、彼らの提案を受け入れた。
膝をついた体勢は、彼らのあだし心には都合の良いものに映ったようだった。
「うわぁ! ごちそうだね!」
事情を知らない妹にとっては、突然の豪勢な食事。
明日、首を落とされる僕にとっては、最後の晩餐。
ついに今日まで、僕はこれから起こることを妹に話すことができなかった。
篠突く雨のせいで、じっとりと重くなった翼がいつになく皮膚を引っ張るので、どうやって顔を動かしたら良いのか、忘れてしまった。
頭はぼんやりしているのに、目だけが食事をする妹の姿を焼き付けようと瞬きもしないで、じっと見開かれている。
「おにいちゃん、これ。鳥の頭じゃないかな?」
「……ん?」
「食べたら、おにいちゃんみたいに翼が生えるかも」
「……ちょっと、待って!」
妹は、ペロリと何かを頬張った。
目の前の光景をただ眺めているだけだった僕は、何が起こったのかよくわからなかった。
「ふふん。食べちゃった」
「……どれを食べたんだい?」
「一個しかなかったの。ごめんね」
「それは構わないけど、鳥の頭なんて……」
「あったもん!」
主菜は、鳥の丸焼きだ。
作る過程で首を落とされた鳥は間違いなくいただろう。
「おにいちゃんは、生えないって言ったけど……もし生えたら、おそろいだね!」
嬉々として語る妹を見ると何も言えなくなった。
その晩も妹を寝かしつけて部屋に戻った僕は、自分の羽根を一本抜いて、手紙をしたためた。
朝、妹を起こしにいくとベッドの上に黒い塊があった。
妹の身体を覆い隠すように広がったそれは、僕の背中にあるものより大きく立派で、美しい翼だった。
「……んん。おはよう、おにいちゃん」
妹は、何の違和感もない様子で身体を起こし、伸びをした。
自然な動作で数回、パタパタと羽を振って畳み込む。
「今日はすごく暖かいんだね。お布団、蹴飛ばしちゃった」
あはは、と笑う妹はまだ気づいていない。
このまま誰にも見られず、認識されなければ、翼が消えてくれるなんて都合のいい話はどこかにないのだろうか。
「どうしたの、おにいちゃん? さっきから何も言わないで」
家の扉が乱暴に開かれ、ドカドカと人が入り込んでくる足音が響いた。
まもなく、妹の部屋にいた僕たちを見つけると動きを止めた人たちの間を縫って、ひとりの男が部屋の中に入ってきた。
妹の姿を認めた男は、はっと息を飲んで満足げに手を叩いた。
「素晴らしい……兄妹で拾ったかいがあったな」
男が妹を顎でしゃくると、僕を迎えにきたはずの人たちがこちらを見向きもせず、妹に群がっていった。
「ま、待ってください。僕が、僕が行きますから!」
「悪いが君とは比較にならないよ。こんなに美しい翼が生えた人間、この姿のまま残さないと価値がないだろう。幸い、君を剥製にするために準備をしていたから、すぐに作業ができる。ははは、君には感謝するよ」
男は、僕の前に立ち塞がり、ガッチリと肩を掴んで一歩たりとも動くことを許さない。
「離してください! 妹は、関係ないだろ! 離せ……ッ」
妹の名を呼ぼうとした口を男に握り込まれ、鉄の味が滲んだ。
男の肩ごしに、顔を殴られている妹の姿が目に入る。
「頭は構わないが、身体には傷をつけるなよ」
男の指示を受け、妹を囲む人間たちはより強く、執拗に妹の頭を殴った。
黒い羽根があたりに飛び散り、微かな悲鳴と「おにいちゃん」と呼ぶ声が、部屋のなかを漂う。
僕は、思い切り翼を広げた。
窓から差し込んだ朝日を反射して、部屋全体がパァッと明るくなる。
刹那、部屋にいた全員が手を止めてこちらを見た。
「おとなしくしろ」
男の声が耳元で聞こえた次の瞬間。
僕の背中は軽くなった。
トボトボと、足が前に進む。
……あれ?
視界の端に、泣きじゃくる妹と窓の外に赤黒く汚れた何かを放り投げる男の姿を見ながら、迫り来る地面に僕はなす術もなく顔を沈めた。
背中に焼けるような痛みを感じて、気がついた。
僕にはもう、翼がない。
不意に、身体がふわりと持ち上がった。
僕の翼では、空を飛ぶことはできなかったけれど、もし、飛ぶことができたなら、こんな感覚だったのかもしれない。
「……い……ゃん! おにいちゃん!」
声のするほうを見上げると、血と涙でぐしゃぐしゃになった妹の顔があった。
下を見ると僕たちが暮らしていた小さな家とそこに群がる人間たちの姿。
少し離れた村の住人たちも、仕事の手を止めてこちらを指差していた。
飛んでいる。
妹の背中から広がる大きな漆黒の翼は、光をうけてところどころ虹色に輝いていた。
空は、僕が知っていたよりも遠くまで青い。
僕たちの家から少し離れたところにあった村が、こうして見るとどれだけ小さかったのかもわかる。
このまま、どこか遠くに行けたら。
しかし、だんだんと高度は下がっていった。
妹の頬を伝った液体が、風に流されて僕の額を打つ。
僕を抱える腕の力がだんだんと弱くなってきて、ずりずりと下に落ち、今はどうにか互いの手首を握ってぶら下がっている状態だった。
「放してくれ」
「いやだよ……おにいちゃん!」
ひとりだけなら、妹はもう少し遠いところまで行けるはずだ。
そうしたら、きっと、生きていける場所があるはずだ。
手を振り払おうとする僕の腕に爪を食い込ませて、妹は僕を逃さなかった。
地面との距離がそう遠くない位置まできた時、不意に乾いた音が僕の耳を打った。
妹の手が離れて、地面に叩きつけられた僕の世界は、そのまま暗転した。
「全く、台無しじゃないか? 誰だい、あれだけ身体を傷つけるなと言ったのに、胸の真ん中に鉄の玉を撃ち込んだのは」
集まっていた人間のうち、ひとりに向かってそれ以外の全員の視線が注がれると、男は迷うことなく引き金を引いた。
乾いた音が響き渡ると、少し遅れてその先にいた人物は地面に倒れ込んだ。
「まぁ、逃げたら殺せと命令していたからね。君のやったことは、間違ってないんだが、それは歩いて逃げた場合の話だ。翼は飾りで、空は飛べないと聞いていたからね。飛べるならもう少し遊びたかったし、狩るなら私にやらせろという話だよ。わかる?」
返事などできるはずもない相手の頭を踏んで、頷かせると男は満足げな表情をしたが、それも短い時間だった。
男が足を向けた先には、黒い翼で身を隠すように妹がうつ伏せに倒れている。
覆い被さっている片方の翼を男が持ち上げると、ピチャリと滴った血液が男の靴に落ちた。
ピクリとも動かない妹の腫れ上がった顔と靴に落ちた血液を交互に眺め、男は「綺麗にしろ」と命令すると背を向けて去っていった。
命令を受け、妹に群がった人間たちは、手早く服を脱がせ、身体や翼についた大まかな汚れを落としていく。
そして最後に、首を刎ねた。
刎ねられた首が転がってきて、僕の胸に当たって止まる。
腫れた頬に残る血と涙の跡を指で拭うと、妹の表情は僅かに柔らかくなったような気がした。
「今日は、もう寝てしまうのかい? ずいぶん早いんだね。さっき起きたばかりじゃないか」
まだ温かい妹の額に口づけをして、頭をギュッと抱きしめると、久しぶりに訪れた瞼の重みに耐えられず、僕はそのまま眠ることにした。
「おやすみ」
君の頭を食べて寝たら、何が生えてくるのかな。
その先は染みがひどくて読める状態ではない。
手紙には、羽根が同封されていた。
色も大きさも異なる二枚の羽根は、風に攫われて空へと還っていった。
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