【短編小説】 シーグラスは輝いて

 僕は普段、電車には乗らない。

 都会では分刻みに電車が来るらしいが、田舎では平気で1時間に1本だとか、1日に数本だとか、そんな頻度だから日常的な移動には適さないのだ。

 始発に乗っても、学校に間に合わない。

 電車通学に憧れている時期もあったが、その実情は、いつかラジオで「マジで足浮いてたかんね」とパーソナリティが話していたように、他人の体温を押し付けられ、身も心も潰されていく不快なものなのかもしれない。

 今、僕が乗っている電車は一両編成だ。
 他に乗客はいない。

 誰もいない。

 場所はいくらでもあるのに、ドアの近くに小さくなって座っている僕は、結局のところ窮屈で、電車の中に閉じ込められた空気すらも、拳を握って頬を殴りつけてくる気がする。

 いっそのこと、本当に人に殴られるほうがマシなのではないかと思う。

 ちゃんと目に見える傷も残してくれるし、運良く、僕が殴られるところを誰かが見ていたなら、少なくともその場では「大丈夫?」と声をかけてくれるかもしれない。

 実際、そんなことにはならないと僕は知っているけれど。
 ほんの少し、期待がまだ胸の中に残っている。

 始発でも間に合わないのに、平日の朝に僕が電車に乗っているわけは単純だ。

 こんな顔で学校には行けない。
 家にも帰れない。

 だから、海を見に行こうと思った。

 ありきたりな話だ。
 学校をサボって別の場所に行くなんて。

 それも行き先が海とは、なんの面白みもない。
 つまらなすぎて、逆に笑けてくる。

 高校生の身体になれば、ひとりの人間として扱われ、保護者の同意がなくともちょっとしたお金くらいは稼げる。

 お小遣いなんてないから、そうしてコツコツお金を貯めてきた。

 明確な目的なんてなかった。
 ただいつか、役に立つような気がしていた。

 それが、今日だったんだと思う。

 人は、海だとか空だとか、自分より大きなものを見ると、自分をちっぽけな存在だと感じるらしい。

 そして、そのちっぽけな存在が抱いている悩みや苦しみなんてものは、さらにちっぽけだから、「なんだ、大したことないじゃないか」と開き直って、清々しい気持ちになることがあるそうだ。

 僕も、人の身体を持っているけれど、はたして、そんな気持ちになれるだろうか。


 地名の後にシーサイドパークとつけた看板をデカデカと掲げた道の駅。

 以前来た時には、じゃこ天を食べた。

 気さくなおばさんが、手形をペチリとつけながらその場でじゃこ天を、あの見慣れた小判のような形にして揚げてくれる。

 揚げている最中も「どこから来たん?」「ソフトクリームもおいしいけん、あとで食べといき」「なに、お城作りに来たん? 夕方になったら、潮が来るけん流されてしまうから、なるべくこっちのほうに作っときや」とおばさんの口が止まることはなかった。

 焦げてしまわないか心配だったけれど、手元なんか見なくとも、ちゃんと美味しく仕上げられる腕前が、おばさんにはあった。

「熱いから、気いつけや」

 おばさんが普通に持っていたから、大丈夫だと思って受け取ったら、想像以上の熱さで、手に電気が走ったようだった。

 慌てて、じゃこ天の部分を避けて外側の包み紙を摘むように持ち、海岸へ移動した。

 海風の匂いなのか、手元のじゃこ天の匂いなのか。
 生臭い魚の匂いが鼻を擽っている。

 不快ではない。

 ただ、確かに魚をすり潰して作ったものだとわかる魚臭さがあり、少しだけ残った骨らしい部分はチクチクして、これまで食べてきたじゃこ天とは全然違うなと珍しく思いながら、僕はしっかりと噛み締めた。

 じゃこ天を食べ終わると、予定通り砂のお城を作るべく移動した。

 おばさんは、ああ言っていたけれど、僕は自分の作った砂の墟城が海に溶かされていくところを見たかったから、あえて海の近くに作ることにした。

 海水で湿った砂と乾いた砂を合わせて城の壁を固めていく。

 堀も作った。
 これで、城の中の環境は変わらない。

 城の正面には、紋章のようにシーグラスをはめ、てっぺんには枝をさした。
 この城の見えない住人たちは、このまま時間がくれば海に飲み込まれるのだ。

 それは一瞬だった。

 僕の城は、海に近いところから少しずつ削り取られ始めていた。
 ゆっくりと崩壊していくはずだった。

 城の真ん中に、巨人の足が乗るまでは。

 波打ち際を勢いよく走ってきた少年は、僕の城を執拗に踏みつけると笑顔で母親のもとへ駆けていった。

 あぁ、人間とはこういう生き物だった。

 見ず知らずの少年に蹂躙され、海に向かって誇らしげに輝いていたシーグラスも、旗を掲げるための枝もどこにいったのか、わからなくなってしまった。

 残された砂山の上を海が歩いていく。

 海が残した足跡の上に再びシーグラスが浮かび上がることはなく、僕の靴はビショビショに濡れていった。潮風で髪も少しベタついている気がする。

 ほっぺたはカサカサのままだった。


 あの懐かしい道の駅で、僕は無意識にじゃこ天の看板を探していた。

 まもなくそれは目に飛び込んできたが、幼い頃に見たものとは雰囲気が違っていた。

 なかを覗くと、若い女性が「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。
 財布を開いて、じゃこ天を注文する。

 女性は業務用の大きな冷蔵庫から、じゃこ天を取り出して揚げてくれた。
 ひとことも話さずに、時間を見ながら丁寧に揚げてくれた。

 プラスチックの容器に入れて、手渡されたそれはハート型をしていた。

 今では、これが名物らしい。

 どこでも食べられるじゃこ天の味がした。
 特段、魚臭くもないし、チクチクするところもないし、気を抜くと電気が走るような熱さもない。

 別に、ここに来て食べる必要のない、なんてことないじゃこ天だった。

 おばさんの手形がついたじゃこ天のほうが、よほどハートの意味を持っていた気がする。

 僕の城があったのはどのあたりだったかと、汀線を眺めているうちにすっかり日が暮れてしまった。

 電車がなくなっては困る。
 重い腰を上げた。

 海なんか眺めていても、虚しくなっただけだった。

 強い西陽に目を細めながら、行きと同じ席に腰掛けている。
 電車の揺れが少し不快だ。

 きっと多くの人にとって大したことではない変化だけれど、僕にとって行きと帰りの電車には大きな違いがあった。

 まず、胃袋にじゃこ天が入っていること。
 次に、家に帰れば何が起きるか予想できていること。

 そして、道連れがいること。

 この電車には今、僕と同い年くらいの女の子が乗っている。

 彼女が着ている制服の高校はこの方向ではないから、おそらく、僕と同じようなことをしていたんじゃないかと勝手な仲間意識が生じてしまう。

 同様のことを思い浮かべたのだろう、チラチラと彼女もこちらを見ていた。

 不躾にじっと眺めたりはしないが、日差しのせいで目を細めている僕がチラリと視線を向ければ、彼女からすると睨みつけているように見えるかもしれない。

 おっとり刀で僕はポケットに手を突っ込み、弄ってみたけれど、取り出していじるのに適切なものは見つけられなかった。

 そうこうしているうちに、彼女は控えめにこちらに歩みよって来た。

 まさか、話しかけるつもりじゃないよな?

 ジッと身構えていると、彼女は僕の前に立って顔を覗き込んできた。

「あの、これ……」

 彼女は手を伸ばして、僕の頭の上のものを取った。
 一枚の葉っぱだった。

 マズい!ッ

 術が解けてしまう。

 慌てて席を立って四足歩行に戻ろうとついた前足は、まだ人間の手の形をしていた。

「あ、ごめんなさい。気になってて。君は、まだ若いみたいだったから」

 彼女は、僕から取った葉っぱを自分の額に載せると、先ほどまで僕が化けていたのと同じ少年の姿になった。

「その姿でも、さっきと同じような表情をするんだね」

 年齢相応の、小学生の姿に戻った僕の頭を彼女は優しく撫でてくれた。

 恥ずかしいやら、悔しいやら、情けないやら。
 目頭がジンと熱くなって、僕は腕で目を隠した。

「ほらほら、お姉さんの胸においで」
「い……今は、男じゃないか」
「ん? もとの身体に戻そうか。君、なかなかおませさんだね」
「そういう意味じゃ……ないもん」
「あら、どういう意味?」

 鷹揚な微笑みを浮かべる彼女は、もう人間に紛れて生きるのにも慣れているのだろう。

 何も知らない人間から見れば、雌雄の区別も、年齢の差もわからない本来の姿を僕らが人前で晒すことはない。

 人間のフリをして生きることは、僕が自ら望んだことだったはずなのに、どうしてこんなにもしんどいのだろう。

「まぁ、そういう時期もあるわよ」

 僕の心を読んだように彼女はそう言った。

 並んで腰掛けて、僕らはたくさん話した。
 一両の電車は、ちっとも窮屈ではなく、僕らのための贅沢な貸切の個室になった。


 別れ際に、彼女は僕の手を握った。
 ひいやりと何か、硬く冷たいものを渡された。

 シーグラスだ。

 顔を上げる頃には、彼女は小走りで改札を通過していた。
 手を振っている。

 何の気なしに振り返したが、いつの間にか背伸びをして必死になっている自分の振る舞いがあまりにも幼すぎると気がついて、急に面映い気持ちになった。

 名前も知らない彼女とまた会うことはあるのだろうか。
 その時もまた、同じ姿でいるだろうか。

 ひとつ、解ったことがある。

 僕は海なんか見るより、彼女のことを思い出したほうが清々しい気持ちになれる。

 ひとりの人間として生きている彼女が、僕を見つけてくれたから。

 僕と同じように、小さな命がこの世界で活動していることを知って、僕は嬉しかったのだ。


 僕よりも長い時間を生きてきたであろう彼女は、シーグラスのように美しかった。


 彼女がくれたシーグラスは、僕が昔、浜辺で失くしたものとよく似ていた。

 踏み壊された砂の城。
 それを攫っていった海。

 一粒。
 一滴。

 遠くに行ったら個々の区別もつかないけれど、せめて隣にあるものくらいはよく見て、大切にして生きたいと、僕は思うのだ。

 彼女のように、見つけられる人間になりたい。

 家に帰ったら、きっとこっ酷く怒られるだろうけれど、別に構わない。
 僕は、今日、とても素敵なことを学んだのだから。

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