見出し画像

【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~野総騒乱(3)

 数日後、鳴海は気分転換も兼ねて、西谷にしだににある龍泉寺りゅうせんじに詣でることにした。城の搦手にある古刹だが、古くは二本松を治めていた畠山氏の菩提寺でもある。近頃、水戸の筑波勢の動きで気が荒ぶることが多く、些かの気疲れを感じていた。そのため、寺の静謐な空気にでも触れて気を鎮めようと思い立ったのだ。
 昼餉の席で家族にそれを告げると、思い切ったようにりんが顔を上げた。
「鳴海様。私も龍泉寺へお供して宜しいでしょうか?」
 鳴海は怪訝に感じた。今では決して不仲ではないつもりだが、冠婚葬祭を除けば、夫婦で連れ立って歩くことはまずない。
 聞けばりんは先日、志摩の妻と「龍泉寺の紫陽花が見頃を迎えている」という話で大いに盛り上がったとのことだった。それで、りんもその紫陽花を見に行きたいらしいのである。
「龍泉寺へ参るのは公用ではないのでしょう?義姉上がお供しても、何ら不都合はございますまい」
 脇から、衛守が言い添えた。確かにその通りで、些か照れ臭さはあるもの、寺への参詣であれば特に恥じるほどでもないという気がする。西谷への道はそもそも人の往来もそれほど多くないから、人目を気にする心配もないだろう。だが、衛守曰く鳴海の「見栄っ張り」の気性は、尚も抵抗の色を隠せない。
 鳴海は、しばし逡巡した。りんから鳴海に何かをねだるというのは珍しい。たまにはその希望を聞き入れても、罰は当たらないのではないか。それに、龍泉寺は一之町の彦十郎家の屋敷から歩いていける距離でもある。そこまで思いを巡らせ、ようやく心を決めた。
「この昼餉を終えたら、参ろう」
 そう言うと、鳴海は妻に軽く肯いた。りんも、口元を綻ばせる。二人のそんな様子を見て、水山と玲子夫婦はひっそりと笑みを交わした気がしたが、鳴海はそれを無視した。

 ――食後、鳴海は越後上布の着流しの上に絽の夏羽織を羽織り、玄関先でりんの支度を待った。外出するからなのかりんは軽く化粧を整えて、鳴海の三尺ほど後ろに立った。りんの装いは縹色はなだいろの縞模様をした会津木綿の着物で、その上から女人用の夏羽織を纏っている。りんは鳴海も見慣れた巾着を手にして、襟元からは薄紅の長襦袢の襟元がちらりと見えていた。丸髷にはいつぞや鳴海が贈った珊瑚珠の髪飾りが挿されており、長襦袢の襟の色と対を成している。
 一之町の屋敷を出て各組の蔵屋敷の前を通り、谷口御門を左手にして右折する。鳴海はりんの足取りに合わせていつもよりも歩幅を小さくするように気遣いながら、新丁坂の入口の方へ足を向けた。
 新丁坂の入口からは、しばらく竹藪の急峻な坂道がつづら折りになって続く。二人は黙々とそのつづら折りを歩いた。竹藪の向こうからは、微かに水音がさらさらと聞こえてくる。西谷を潤す二合田にごうだ用水の流れる水音である。
 竹藪の坂を登り切った辺りには、彦十郎家の茶園がある。春や秋に彦十郎家が客人を招いて大規模な宴を開く際にはここを使うこともあるのだが、その名に相応しく茶畑もある。彦十郎家の家人らはこの茶の芽を摘んで干し、自家用の茶としているのだった。
 ここまで急な坂を登ってきたからか、後ろを歩くりんの息遣いは微かに乱れている。鳴海はその気配をうなじの辺りにちりちりと感じた。
 りんの息を整えさせてやろうと思い、茶畑の側で足を止める。茶の木の枝先には、葉を摘み取った跡が見られた。
「――もう、茶摘みは行ったのだな」
 そう言いながらも、鳴海は我ながらおかしかった。八十八夜はとうに過ぎているのだから、りんを始めとする女性陣が茶の一番芽を摘みに来たのは、しばらく前の話である。鳴海から妻に話しかけたのは特に意味があったわけではなく、いつまでも黙っていると気詰まりだからだ。
 りんが小首を傾げた。
「今年はあまり出来がよろしくないような気もしますが……。それでも、我が家で使う分には十分でございましょう?」
「そうだな」
 鳴海は、微笑を浮かべた。りん達が摘んだ茶は、茶園の片隅にある茶室を兼ねた小屋で陰干しにされているはずである。帰りしなに今一度ここに立ち寄り、新茶を持って帰ろうと思った。
 やがて、龍泉寺の山門が見えてきた。山門を潜ると長い石段が続いている。足元に気を付けながら石段を登り切ると、境内が視界に飛び込んできた。
 時折、カコンと鹿おどしが山間に響く。本堂には住職もいるはずなのだが、勤行の邪魔をしては悪い。鳴海は本堂へ上がり込むのを遠慮した。
 境内に咲く紫陽花は、確かにひっそりと花の盛りを迎えていた。視界に飛び込んでくる青紫が、目に優しい。りんが目元を和らげ、腰を屈めて花に顔を近づける。その視線の先には、一匹の蝸牛かたつむりがいた。童心に帰ったものか、りんが蝸牛の角をちょんちょんと突くと、蝸牛が慌てたように角を引っ込める。そんな蝸牛を見てふふっと笑った妻に釣られ、鳴海もふっと笑った。刹那、何かの芳香が鳴海の鼻腔をくすぐった気がしたが、紫陽花の香りではないようである。
 一通り蝸牛をからかって満足したのか、りんが腰を上げ、鳴海の顔を見つめた。
 今日の散策は、特に明白な目的を持ってここを訪れたわけではなかった。だが、夫婦の時間をもう少し満喫したくなり、鳴海はそのままある人物の墓標に足を向けた。その墓の側には、桜の銘木がある。梅雨時の今は青々とした葉が豊かに茂っており、その木は、二本松の者の間では翔龍桜しょうりゅうざくらと呼ばれている。
 鳴海が墓前で腰を落として両手を合わせると、後ろでりんも同じように振る舞っているのが感じられた。墓の主は、佐久間織部おりべ。今から百七十年余り昔、時の将軍徳川綱吉に側小姓としての出仕を命じられたもののそれを断ったがために改易を命じられ、二本松に配流されてきた信州長沼藩の藩主である。その霊を慰めるために植えられたのが翔龍桜で、今ではそれなりに大きな木となり、春には人々に花を愛でられているのだった。
「――織部様は、おいくつで亡くなられたのでしょう」
 小声で、りんが鳴海に尋ねた。鳴海が墓標の裏手を見てみると、「享年二十三」とあった。
「二十三だったらしい。織部様は若くして亡くなられたのだな」
 鳴海が説明してやると、りんの顔が曇った。佐久間織部は彦十郎家とも江口家ともまったく縁のない人物だが、丁度今のりんと同年でこの世を去った計算になる。りんはその事に気づき、織部の死を痛ましく感じたのだろう。
「奥方やお子様は、いらっしゃらなかったのでしょうか」
 鳴海は、首を振った。さすがにそこまで詳しい情報は、鳴海も解りかねた。だが、流罪になった人物であるし、そもそも改易になったのならば、仮に妻子がいたとしても幕府に処断されていた可能性もある。
 りんは何を感じたのか、口を噤んでじっと織部の墓標を眺めている。鳴海もその様子を黙って見守っていたが、不意に、首筋に冷たいものを感じた。
「あ」
 天を見上げると、ぽつぽつと雨粒が肩や背を濡らし始めた。家を出る段階では薄曇りだったのか、いつの間にか空に黒雲が大きく広がっている。
「急ごう」
 鳴海は、りんを促して立ち上がった。りんが転ばぬように気を付けながら小走りに参道を駆け、郭内への坂道を下る。だが驟雨しゅううはたちまち勢いを増し、二人を濡らしていく。このままでは一之町の屋敷に辿り着く前に、ずぶ濡れになる。
 鳴海は彦十郎家の茶園のところまで来ると、りんの方を振り返った。
「茶室で一旦雨宿りをしようではないか」
 りんも、こくりと肯いた。家のことも気になるが、この勢いでは茶室で通り雨をやり過ごす方が得策である。
 二人は、慌てて茶室の中へ駆け込んだ。

野総騒乱(4)に続く

文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)

#小説
#歴史小説
#幕末
#天狗党
#尊皇攘夷
#二本松藩
#大谷鳴海
#鬼と天狗
#私の作品紹介

この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,671件

これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。