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実は名門の一色家

主夫婦の結婚の仲立ちを勤めた、泪橋の主人公である「一色図書亮いっしきずしょのすけ」。
実は、かなりミステリアスな人物です。
治部討伐のために、白方しらかた神社に奉納された起請文に署名していたり、藤葉栄衰記を始め数々の文献で名前が出てくるので、実在したのは間違いないのでしょうけれど。

当初は主家筋の「二階堂為氏ためうじ」を主人公にするつもりだったのですが、いかんせん、登場の時点で13歳という子供だったのと、あまりにも二階堂四天王を始めとする家臣団に振り回されている印象が強すぎました。

そこで、「結婚に関わった」という理由から、図書亮にチェンジした次第です。
ただ、彼は彼でなかなか興味のある人物かもしれません。

若干ネタバレ気味になりますが、「須賀川市史2」の旗本衆にも、藤葉栄衰記の下巻(こちらは戦国期の話が中心)にも名前がないので、派手なお家柄?の割に、須賀川に残らなかったのは、確かなのでしょう。

須賀川市史2よりのキャプチャ。国立国会図書館デジタルアーカイブで閲覧できます。

ある意味では、非常に都合のいい人物なわけで、為氏&三千代姫夫婦との対比も兼ねて、妻(りく)も架空の人物として登場させました。

一色いっしき家とは

まず、一色家とはどのような家柄でしょうか。
一説によると、祖先は清和源氏(河内源氏)義国流であり、足利氏の支流と言われています。足利泰氏の子である一色公深が、三河国吉良荘きらのしょう一色(現在の愛知県西尾市一色町)を本拠地とし、一色の姓を名乗ったとのこと。
少し室町時代に詳しい方ならば、「三管領四職家の一角」と言うと、名字に聞き覚えがあるかもしれません。
Wikipediaなどの情報を整理すると、一色氏の流れは、このような感じでしょうか。
文章だけでは関係を掴みにくいので、Excelを使って系譜を作ってみました。

さて、肝心の「図書亮」ですが、出自ははっきりとしていません。ですが、藤葉栄衰記では通常本も野川本(本編とは違うバージョンがあります)でも名前が出ていることから、私は、「図書亮は鎌倉公方に仕えた宮内一色家の一族ではないか」と考えています。

そう考えると、永享の乱のときに、須賀川二階堂氏とのつながりがあったと考えられ、為氏の須賀川下向についてきたのも理解できますしね。
図書亮と一色持家(時家)が親子というのはフィクションですが、それ以外の一色氏の血縁関係者については、概ね史実通りです。
一色持家や、直兼は永享の乱の煽りで殺害されていますし。

家柄だけで判断すれば、図書亮は、為氏に匹敵するかもしれないサラブレッドとも言えるでしょう。
そのような出自ですから、「花の宴」において、今様を咄嗟に詠じられるだけの教養を身に着けていたわけです。

余談ですが、一色家の家紋もいくつかのバージョンがあります。トップ画像は全て一色家の家紋で、左から順に

  1. 五ツ木瓜もっこう一引紋

  2. 五七の桐

  3. 丸に二つ引き紋

3は足利家の家紋としても有名ですよね。この一事からも、図書亮は間違いなく名門の子弟だったことが伺えます。

ややこしい対立関係

さて、一方でややこしいのが、都にいる将軍家と鎌倉府の対立関係ではないでしょうか。
元々鎌倉府は、南北朝の対立時代に「東北に残存する南朝勢力の見張り役」として、鎌倉に置かれました。初代は、足利基氏もとうじ。室町幕府二代目将軍義詮よしあきらの弟です。

さらに、その出張機関として、須賀川には、「篠川御所」(現在の須賀川市と郡山市の境界辺り)や稲村御所(須賀川市稲田地区)などが置かれました。

ですが南北朝が統一された後、将軍職の後継者争いなどを巡って、都の幕府と鎌倉府は、しばしば対立するようになります。
その最たるものが、永享の乱(1439年)でした。

永享の乱の要因はさまざまですが、鎌倉公方の補佐役だった上杉憲実のりざねは、主である持氏もちうじと対立。京都の将軍である義教よしのりに救援を求めたのが、大きな原因です。
この時、岩瀬地方の行政上の責任者であった稲村公方いなむらくぼう足利満貞は、鎌倉公方の持氏に殉じました。その稲村公方に従っていたのが、須賀川二階堂一族です。鎌倉府の行政組織・システムははっきり確認できませんが、京都の幕府の組織に準じていたと言いますから、「在京」が基本だった幕府の要職同様に、二階堂一族の主だった人たちは鎌倉に居住して、鎌倉府に出仕してたのでしょう。

さらに、須賀川二階堂氏とは別に、図書亮の実家である宮内一色家も、その多くが持氏を支持したと考えられます。そのため、将軍義教によって宮内一色家は弾圧され、一方で京都の一色本家も将軍と対立。しばらく、一色氏は全体的に冷遇されたようです。

また、1440年の「結城ゆうき合戦」では、岩瀬地方では篠川公方ささかわくぼうが地元の豪族である畠山・石川・田村・石橋などの連合軍によって滅ぼされるなど、混乱が続きます。
幕府の指示を仰ごうにも、この頃は丁度「将軍不在」の時代です。
七代目義勝は一年ほどで病死。八代目となる三春殿(後の足利義政)は文安三年の時点でわずか11歳であり、実際には当時の管領である畠山持国が、政治を行っていたのでしょう。

図書亮が二階堂為氏の下向に従ったのは、そのような戦乱の直後でした。三千代姫の父である治部大輔じぶだゆうが、やりたい放題だったのも、ある意味では頷けるところがあります。

二階堂四天王とは

為氏の頃に定まったと言われている二階堂四天王。家老格の家柄であり、二階堂家臣団の中でも、名族です。
代々名前が引き継がれたのは、以下の4名。

  1. 須田美濃守すだみののかみ

  2. 箭部安房守やべあわのかみ

  3. 遠藤雅楽守えんどううたのかみ

  4. 守屋筑後守もりやちくごのかみ

このうち、割と子孫の前後関係がはっきりしているのは、1の美濃守の系統です。天正17(1589)年、伊達政宗によって須賀川二階堂氏は滅ぼされるのですが、その時に、最後まで抵抗したのも当代の美濃守でした。
美濃守は、時の女城主であった「大乗院(伊達政宗の伯母)」に代わり、二階堂全軍の指揮を取りました。

また、大乗院はその後常陸(茨城県)の佐竹氏を頼り、美濃守もそれに従います。後に、頼った先の佐竹家は関ケ原の戦い(1600年)で西軍側と見做されたために、秋田へ移封。美濃守もそれに従いました。
ただし、彼の次男は政宗に助命され、神官として須賀川に残ったようです。
→現在の、須賀川の総鎮守「神炊館神社」の禰宜の方々の先祖です。

2の箭部一族も、須田一族に継ぐ勢力を持っていたのではないか?と私は推測しています。
ただし、本格的に二階堂氏に従属したのが「為氏」の時代という説や、もっと以前からの説はど、はっきりしていません。
本拠地にしていたのも、下野守による「木舟城きふねじょう」というのが通説ですが、「須賀川市史」の勢力図などによると、今泉にも「箭部主税助ちからのすけ」が存在し、これもどこに拠点を置いていたのか、いまいち決め手に欠けます。

古くからの勢力であれば、地元の神社仏閣との縁を大切にしたはずだということで、石背国造などが祀られている白方神社のある今泉を箭部氏の拠点としましたが、どうでしょうね。

また、為氏はともかく、その家臣である四天王であれば、「主の為に少しでも名族と結びつきたい」と考えたのではないでしょうか。
箭部安房守がせっせと姪の「りく」を通わせたのは、そのような下心もあった……かもしれませんね。何せ、今よりも「お家大事」の時代ですし。
ちなみにりく自身は、「木舟城」育ちということにしたので、彼女が時折図書亮に教えてくれる伝承は、須賀川東部に伝わる言い伝えを参考にしています。

箭部氏の娘として本来は政治的動きを見せてもおかしくないりく。時には拗ねたり夫婦喧嘩をしつつも、屈託なく明るく夫に尽くす彼女は、私のお気に入りのキャラクターです(笑)。

物語終盤に向けて

下書きの方はというと、悲劇の場面を書き終えて、現在は須賀川城攻防戦最終日の場面を描いています。ここで「忍び」なんていうモノがでてきたものですから、これをどうやって利用するか。
当初は忍びの登場予定はなかったのですが、忍びのお仕事は戦場だけではありません。「今後の図書亮の身の振り方にも利用できるなあ……」なんて思い立ち、本来の藤葉栄衰記では出てこない伏線作りに、一役買ってもらっています。その分、リサーチ作業もさらに複雑化しましたが^^;

本来は、「三千代姫物語」のわずかな記述(3000字弱)から「もう少し発展させたい」と思い、短編として発表する予定だった「泪橋」。
主人公を図書亮に据えたことで、室町時代の政治事情の複雑さなども絡み合い、れっきとした「歴史・時代小説」になってきた気がします。
二階堂家のその後については「藤葉栄衰記」などで確認できるとして、図書亮はどのような選択をしていくのか。徐々に戦国時代の匂いも漂いつつありますし、楽しんでいただければ幸いです。

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