【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~掃討(9)
翌二十九日になると、対岸の那珂川からの砲音も大分少なくなった。内藤の見立て通り、兵器の手持ちが尽き始めたのか、大発勢側は引き上げの様相を呈し始めた。この日、二本松藩兵はさらに北方に兵を進め、後台に滞陣していた。幸い、五番組も六番組も負傷者が出ることなく、全員が無事である。さらに三十日も特に大発勢が北進してくる様子は見られなかった。内藤が水戸城に使番である里見を出して市川の指示を仰いだところ、大発勢は一旦湊方面へ兵を退いたとのことだった。また、二本松藩に続いて壬生藩も到着するとの報告がもたらされた。先の弘道館の会議で二本松藩の太田守備の任が定められたため、壬生藩が那珂川を渡り此方側に到着するのを持って、二本松藩兵は太田に向かってほしいという。
そこへ、外記右衛門が成沢村にいる源太左衛門の指示を持ってやってきた。助川方面は山野辺主水正が辛うじて助川海防城に逃げ戻ったが、成沢村の二本松藩を始め、宮田村一帯には菊地善左衛門、戸祭久之允、寺門登一郎などが布陣している。西方の入四間村から高鈴山にかけては山本三平が固めており、とてもではないが山野辺軍には討って出られるだけの余裕はないだろうというのが、外記右衛門の話だった。事実、成沢村の二本松本営には山野辺軍の使者が何度も足を運び、「幕軍に対して他意はない。ただ、市川らの暴走を止めたかっただけであり、囲みを解いて欲しい」と弁明しているという。
「御家老は、山野辺主水正様を如何様になされるおつもりでござるか?」
鳴海の問いに、外記右衛門はさあ、と曖昧に首を傾げた。主水正側で大発勢に加わった大津彦之允を匿っている以上、二本松藩としては直ちに山野辺軍の投降を受け入れるわけにはいかない。が、主の主水正は水戸宗家の義弟筋に当たる。安易にその身柄を誅するわけにもいかない。源太左衛門が判断に悩むのも当然だった。
「どう思われる、内藤殿」
与兵衛が内藤に渋面を向けた。水戸藩の人事について不手際があれば、今度は二本松藩がどのような譴責を受けるか知れたものではない。
「ぼちぼち、壬生藩も到着する頃合いでござろう。その確認がてら弘道館へ使番を遣り、市川様らの御意向を確認させまする」
内藤も、憂鬱そうに答えた。それから里見を呼びつけ、再度壬生藩の到着の有無と水戸藩執行部の指示を仰いでくるように命じた。
一刻半程後に、里見は再び弘道館からの指示を持ち帰ってきた。その指示書によると、現在天狗党の拠点となっている額田村へ壬生藩を向かわせる。那珂川沿岸に駐留している二本松藩兵は明朝太田に向かい、同時に、成沢にいる源太左衛門らも一旦太田に入らせる。そこで再度二本松軍の編成を行い、改めて太田近辺守備及び助川方面の警戒に当たるようにとのことだった。
九月一日、一同は棚倉街道を北に取り、額田村を過ぎて河合の渡に差し掛かった。ここを渡り終えると、上河合村である。そこから棚倉街道沿いに松並木が続き、下河合村にまで続いている。やがて道は谷河原村、磯部村と通り過ぎ、源氏川という小さな川が見えてきた。川幅がさほどないからか、ここには十間の土橋が架けられている。その土橋を渡り切ると、いよいよ太田村である。古くは佐竹氏が城を構えていたというだけあって、村全体が鯨ヶ丘と呼ばれる台地の上にあるのが見えた。土橋のところから木崎坂の入口までは、今度は道の両側に桜の木が植えてある。今は秋であるため桜の葉は黄色や紅に色付いているが、春は花見が楽しめるのだろう。今では水戸藩の管理する太田御殿があるだけだが、はるか昔に佐竹氏の居城があった頃は、舞鶴城とも呼ばれる見事な城郭があったらしい。
「この坂は苦手でござる」
鳴海の隣を行く里見が、息を切らせている。水戸城下は平地であるから、水戸城下の者らは坂道に慣れていないのかもしれない。
「これしきの坂で音を上げられるようでは、二本松には住めませぬな」
鳴海の後ろで、成渡が笑った。それに釣られて鳴海もふっと苦笑を漏らす。成渡の言うように、城下を縦断する奥州街道から郭内に入るには、どこからであっても観音丘陵を超えなければならないため、二本松の者の足腰は自ずと丈夫になるのだった。
木崎坂を登りきったところで、見事な石垣が見えてきた。その石垣の上に、黒塗りの柵が設けられている。太田城下の入口である。道の分岐点には制札場と火の見櫓が設けられていた。制札場には、真新しい札が掛かっている。鳴海が近づいてみると、相羽九十郎の名前において次のような文言が記されていた。
近来浮浪の輩、徒党を結び、所々を横行し、恐れ多くも、烈公様の徳義を汚し申す。容易ならざる御国難を作り起してきた事は、人々承知の事ではあるが、物の黒白もわからず、ひとすじに国家の為と教え込まれ、誤って賊徒の奸計に欺むかれ、父母の名をも辱かしめしものあり、今や、大軍を以て、賊徒を掃攘するときがきた。もし、過を悔い、罪を改むるものあらば、速に志をひるがえし、太田陣営に出頭し、降参すべし。然らば、陣将、寛大の慈しみの心を以て、その罪を許すものである。
どうやら、降伏を促す高札のようである。この高札から察するに、兵力の損耗を避けたいのは諸生党も同じなのだろう。
黒門の向こうには、弘道館で顔を合わせた佐治が一足先に出迎えに出ていた。その傍らには、二本松藩の作事奉行である国分文右衛門の姿もある。
「大谷殿、青柳辺ではご苦労でござった。既に日野殿も太田に入られておられまする」
「左様でござるか」
与兵衛がちらりと佐治を見て肯いてみせた。佐治の弘道館での軍議の折の弱腰な物言いが気に食わなかった与兵衛の口ぶりは、そっけない。そんな与兵衛の思いを知ってか知らずか、国分は宿の割り振りについて説明していった。水戸藩の関係者はその多くが太田御殿の守備に当たっているが、二本松の本陣は東上町にある浄光寺、脇本陣を東口町にある法然寺とするように手配してある。既に源太左衛門は浄光寺に入っているとのことだった。鳴海も西中町にある小林家という宿に入ると、ほっと息をついた。
>掃討(10)に続く
文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)
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