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使えなかったエピソード

 数日前に、奥州では世良修蔵が嫌われ者だったというトピックを上げました。

 小説執筆に当たり、二本松藩史を始めとする各種歴史書の読解もしていたのですが(歴史小説の宿命でしょうね)、作中で使いたくても使えなかった、そんなエピソードもいくつかあるのです。
中でも印象に残ったのが、こちら。

頑固過ぎる会津人

 こちらは、日付を確認したところ(4月29日)、二本松からの出席者がいないところでやりあっていたために、ボツにした場面です。
 推敲中に、どうしても外交の場面を書きたくて(でないと、なぜ二本松が戦乱に巻き込まれたのかが分からない)、会津戊辰戦記(山川健次郎)と、仙台戊辰記から、引っ張ってきたもの。

 仙台(但木ただき土佐、坂英力、真田喜平太)と、会津の梶原平馬、付き添い役として、米沢藩の木滑要人、片山仁一郎が出席した、関宿(現在の宮城県七ヶ宿町)における会談のワンシーンです。
 会津の梶原平馬と仙台藩士らが、丁々発止のやり取りをしていた場面などは、会津の人らしい反応だなあと感じます。

まず口火を切ったのは、仙台の但木土佐である。
「この度の謝罪降伏の申入れの上は、開城はもちろん、謀主の首級は差し出さざるを得まい」
 先の会津での会談の際とは異なり、頑なである。だが、梶原平馬も負けていなかった。
「寡君が城外へ謹慎する儀は、無論のこと。だが、謀主の首級は差出すことが出来ない。なぜならば、伏見の役に関係した者は大概戦死し、生き残った者は一両名のみ。しかもこれらは皆国家忠義を尽くす者である。もし、その首を斬れば国内は動揺してどのような変事を生ずるかもしれず、かつ、伏見の件は慶喜公が一身にその責任を負い、謝罪嘆願状にも私一身の罪にて外将卒の誤りではない旨を記載し、朝廷はこれをご受納された。それ故、弊藩に罪を被せようにも、既に消滅したものである。さらに、何の罪を問い討伐を受けなければならないのか」
 土佐は、「謀主の首級を差し出さないとあっては、降伏謝罪の取次をすることはできぬ。貴藩はこれをどのようにお考えか。たとえ取り次いだとしても、総督府は決して許さないだろう。そのときは、貴藩はこれをどうするおつもりか」
と、詰め寄った。
 だが、会津も負けてはいない。
 平馬はしばし沈思した後、「一国皆死を以て守るのみ」とだけ述べた。    会津藩は、皆一丸となって死を覚悟で国を守る、というのである。
 土佐も、次第に感情が高ぶってきた。
「一国皆死を以て守るのと、わずかに一両人の首を以て国命に変えるのと、いずれが会津の為か。その利害をよくよく考えられよ」
 平馬が沈黙する。
 畳み掛けるかのように、真田喜平太が仙台藩の言い分を続けた。その眼には、頑固な会津人に対する辟易の感情が滲んでいた。
「もし、謀主の首を出すことが出来ないというのであれば、速やかに帰って兵備を厳重にして待たれよ。我等は諸君と旗鼓の間に見えよう。元来、君子の罪は君父の過失に留まる。貴藩が若し君臣の義を糺すのならば、彼の一挙は慶喜公の過ちに有らず、実に容保の罪なりとこそ言うべきである。また、貴殿らにおいては寡君のせいではなく、全く拙者らの罪であると言うべきであろう」
 ここまで言われては、譲歩せざるを得ない。平馬は長いこと真田の言葉を黙考し、ようやく口を開いた。
「誠に貴殿の諭す通りである。然らば、謀主の首を差し出そう。さりながら、鎮撫総督府の参謀は薩長二藩であるのは言うまでもないが、我が藩はいかにして誠意を表し謀主を斬ってその首を差出たとしても、彼らの腹の中は疑心が渦巻いているだろう。ひたすら私怨を報いるのを急いでいる彼らは、さらにまた難題を申し出しかねない。そうなったら、如何致す」
 但木土佐が、もう一押しとばかりに、平馬の目を見据える。
「誠意悔悟を事実に表して来たからには、必ず聞き届けられるだろう。その儀は拙者共が保証する」
 真田がそのように断言した裏には、裏で副総督の澤為量から、「会津が降伏してくれれば、征討しなくて済む」と漏らされていたからであった。また、真意であるかどうかはともかく、下参謀の世良もまた、「早く会津が降ってくれれば、事が終わるだろう」と述べていた。
 遂に会津の使者らは、仙米の提案を受け入れた。

参考:会津戊辰戦史&仙台戊辰史より

 よく歴史サイトなどでは、会津以外の奥羽諸藩は皆、最初から会津の立場に同調したように描かれがちですが、当時の談話を読む限りでは、必ずしもそうではない。
 仙米両藩が、物凄く会津の人の頑固さに手を焼いた様子が、ありありと描かれています。時には、ブチ切れそうになっている場面も。

 総督府の貴族のお坊ちゃん達(九条総督、醍醐忠敬、沢為量さわためかず)も、本心は「世良らも適度なところで妥協しろよ」と思っていた……かもしれません。

振り回される仙米・二本松藩 

 仙台・米沢を始め(+二本松も)、奥羽諸藩がこれだけ苦労して「会津の降伏恭順」を引き出したのに、結局は嘆願書を拒否したのですから、奥羽列藩から怨みを買っても、仕方がなかったのではないでしょうか。
ちなみに、小説のために時系列で事件をメモしたのが、こちら。

$$
\def\arraystretch{1.5}
\begin{array}{l|l|l}
\textbf{時期}& \textbf{出来事}& \\ \hline
2月上旬&新十郎、和田右文、浅見競らと各藩の使節に対応\\
~3月上旬&\\ \hline
3/9&日野源太左衛門、服部久左衛門、\\
&和田右文、飯田唱を仙台に派遣。\\
&総督一行が仙台に来るとの情報を得て、\\
&朝命を伺うのが目的。\\ \hline
3/18&総督府一行、仙台領寒風沢に投錨。\\ \hline
3/20&日野等、松島に赴いて諸卿の安否を問う。\\ \hline
3/25&総督府一行、仙台入。養賢堂を本営とする。\\ \hline
3/25&仙台に討会命令。二本松にも仙台応援の下命。\\
&仙台で待機していた日野源太左衛門が、\\
&飯田唱を二本松に急行させる。\\ \hline
3/28&仙米両藩への使節として、一学・新十郎が二本松を出発。\\
&米沢に向かおうとしたが、途中で崎田伝右衛門と遭遇。\\
&「仙台で重要な会議があるので、\\
&仙台へ向かうべし」と、仙台へ。\\ \hline
4/4&一学、新十郎、崎田と共に仙台藩\\
&(坂英力、真田喜平太)、大瀧新蔵、\\
&佐藤大八(米沢藩)と会談。\\
&「仙台藩は追討の朝命を受け、\\
&米松ニ藩は応援の大命を奉じた。\\
&朝旨は固より遵奉すべきと言えども、\\
&攻伐は上策ではない。\\
&徒に干戈を動かして百姓を苦しめるよりは、\\
&隣藩の交誼を以て会津藩を説得し、\\
&謝罪恭順の意を示させようではないか。\\
&会津藩が謝罪の実効を挙げれば、\\
&朝廷もまた深くその罪を問わないだろう」\\
&という結果に落ち着いた。\\ \hline
4/16&新十郎、瀬尾九右衛門兵衛らが若松にて、\\
&玉蟲左太夫、若生文十郎、横田官平(仙台藩)、\\
&上杉主水、木滑要人、片山仁一郎\\
&(米沢藩)と会談。\\ \hline
4/17&\boldsymbol{総督府下参謀付、野村十郎が来松。}\\
&\boldsymbol{会津攻撃を督促。}\\ \hline
4/18&\boldsymbol{土湯へ出兵。6個小隊を出す。}\\
&\boldsymbol{同日、仙台藩も土湯に出兵。}\\
&\boldsymbol{岳/木ノ根坂口:浅尾数馬介}\\
&\boldsymbol{樽井隊、大谷与兵衛隊}\\
&\boldsymbol{永田口:丹羽掃部介}\\
&\boldsymbol{種橋主馬介、成田弥格}\\
&会津藩:家老梶原平馬・内藤右衛門・一瀬要人が対応。\\ \hline
4/19&参謀醍醐忠敬、下参謀世良修蔵来松。\\
&世嗣五郎君と会談。\\
&\boldsymbol{土湯峠にて、会津と小競り合い}\\
&山川大蔵、伊東左太夫、手代木直右衛門が来松。\\
&「藩主は謝罪の実効を立てたいと思っているが、\\
&開城ともなれば、頑固な藩士たちがどのような\\
&変事を起こすか分からない」と主張。\\
&→開城は認められないが、削封なら認めら\\
&れるというのが、会津の判断。\\ \hline
4/20&\boldsymbol {岳温泉、自焼。}\\
&\boldsymbol{会津藩と土湯で小競り合い。}\\ \hline
4/21&醍醐忠敬、世良修蔵本宮訪問。\\
&両者護衛のために、\\
 &城代:服部久左衛門、\\
 &留守居役:和田右文\\
 &卒隊長:赤田数右衛門の1小隊が同行。\\ \hline
4/22&新十郎、瀬尾帰藩。\\ \hline
4/29&仙米2藩と会津藩首脳陣、関宿にて会談。\\
&仙台:但木土佐、真田喜平太\\
&米沢:木滑要人、片山仁一郎\\
&会津:梶原平馬、伊東左太夫、\\
&河原善左衛門、土屋旨太郎、山田貞助\\
 \end{array}
$$

$$
\def\arraystretch{1.5}
\begin{array}{l|l|l}
\textbf{時期}& \textbf{出来事}& \\ \hline
閏4/1&会津藩の降伏条件の確認。\\
&\boldsymbol{世良修蔵、本宮において}\\
&\boldsymbol{ 仙台・二本松藩などに出兵命令。}\\ 
&\boldsymbol{中山峠にて戦闘。}\\
&\boldsymbol{午前10時に戦端を開いたが、}\\
&\boldsymbol{小競り合いに終わる。}\\ \hline
閏4/2&\boldsymbol{白石本営より、伊達筑前に命令があり}\\
&\boldsymbol{進軍停止を命じられた。}\\
&(会津容保公の謝罪嘆願が確認されたため)\\\hline
閏4/3&一学、新十郎、飯田唱と共に白石へ。\\\hline
閏4/4&一行、白石着。米沢藩から書面での\\
&要請により、関宿へ。\\
&・米沢藩の宿所で挨拶後、仙米両藩主が\\
&九条総督に直接会津藩の嘆願書を提出するため、\\
&二本松藩主も同行して欲しいと求められ、\\
&当人の病気を理由に拒否する。米沢藩も了解する。\\
&・仙台藩の宿所で同様の内容を報告、了承される。\\
&列藩会議招請書が、東北諸藩に対して出される。\\ \hline
閏4/5&二本松藩一行、関宿到着。\\
&この日以降、会談参加。\\ \hline
閏4/8&飯田唱を二本松へ派遣。藩首脳部への\\
&状況報告と、今後の方針の確認を行わせる\\ \hline
閏4/9&飯田唱、関宿に戻る。一学ら、報告を聞く。\\ \hline
閏4/11&上杉斉憲、白石に到着。白石会議開催\\
&但木土佐から嘆願周旋についての大略・趣旨の説明\\
&→仙米両藩が作成した嘆願書の披見、\\
&増田・若生・木滑・大瀧による詳細説明\\
&諸藩に異論はなく、会津藩家老名義の嘆願書、\\
&諸藩連名の「諸藩重臣副嘆願書」、\\
&仙米連名の「会津藩寛典処分嘆願書」が翌日提出される\\ \hline
閏4/12&伊達慶邦、上杉斉憲ら、岩沼に滞陣中の九条総督に手渡される。\\
&九条:嘆願書を受理。\\
&他の総督府スタッフの意見を聞いた上で回答すると、\\
&4~5日の猶予を求める。\\
 &嘆願書の採用を明言。\\ \hline
閏4/15&嘆願書却下。会津藩、最後の嘆願書を提出。\\ \hline
閏4/20&この日付で提出された応援解兵届に、\\
&二本松藩代表として、一学が署名。\\
&\boldsymbol{世良修蔵暗殺。会津軍、白河城に入城}(午後1時)。

\end{array}
$$

太字のところは、戦火を交えた・もしくは暗殺などですが、その裏で会津をなだめにかかっているわけです。
できれば「奥羽に戦火がもたらされないように」と、総督府(=新政府軍)を相手に、一芝居打とうとしていた様子が伺えるのではないでしょうか。
仙台などは、割と早期から独自に朝廷に使者を遣わして、「討会」を回避しようとしていた動きが見られます。

せめて奥州への誠意を見せるべきだった

そうした仙米を始めとする東北諸藩の願いを一刀両断したのが、世良でした。
世良は一廉の教養人だったのだから再評価されるべきという意見もあるようですが、たとえ世良が教養人だったからといって、奥羽を侮辱していい理由にはなりません。世良の行為を正当化する論拠としては、弱すぎます。
横暴の記録が出てくるのが、会津の資料だけではなく、仙台戊辰史や二本松藩史、本宮町史など多岐に渡ることからも、あれこれやらかしていたのは事実なのでしょう。
何よりも、現地の武士のプライドを考慮しなかったのが、世良の大きな誤りでした。

例えば西郷隆盛などは、戦後、旧敵である庄内藩から絶大な信頼を寄せられていますよね。
また、薩長の人材で穏健派だったと感じられるのは、野津兄弟(鎮雄・道貫)。弟の方は、後に二本松に「大壇口の二勇士」の顕彰碑を建立させたり、白河で掠奪しようとする部下を止めたエピソードが、現地の談話として残されています。
彼らは敵将でありながら、相手のプライドや立場も尊重したからこそ、敵地においても尊敬されたのではないでしょうか。

別に、現在の奥羽の人が皆「薩長憎し」というわけでもないですし、ちゃんと薩長の人間を顕彰する人もいたという事実も残されている。そうした事実はもっと広まってほしい。
ただ世良については、東北地方ではあまりにも「いい話」のようなものが、残されていないと言うだけです。

世良が独断で「奥羽諸藩の嘆願を突っぱねた」のか、それとも、西郷らの指示によるものなのかは、未だ不明。やはり、新政府軍の資料はどうしても「勝者の目線」になりがちですし。書き手側が「どの資料を信頼するか」にもよって、ニュアンスは変わりますしね。

仮に西軍の参謀が、最初から世良ではなくて例えば板垣退助などだったならば、もう少し穏健な事の運び方をしたのではないでしょうか。
(板垣も、戊辰当時の言動は割と穏健)

あるいは、世良自身にも「功を立てなければ」という焦りがあったのか。西軍上層部は、最初から、世良を捨て駒とする予定でこの人材を充てたのか。
当時の上層部の意図は図りかねますが、やはり時代に咲いた徒花の一人だったと感じるのです。

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