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時代の徒花、世良修蔵

少し前まで推敲の為に二本松藩史を再度読み返し、世良修蔵の暗殺のくだりを読解していました。(全て文語体なので、読解という感じです)
まあ、この人はやりたい放題やっていて、あまりいい印象がありません。
三月上旬に総督府一行が仙台藩領の寒風沢に入り、到着早々やったことを、ざっくり書き出してみると、

• 路傍で臣士を侮辱
• 市井で商買を嚇怒
• 山野で婦女を強姦
• 仙台誹謗の歌謡を歌った
「竹に雀を袋に入れて後においらのものとする」
※「竹に雀」とは、伊達家の家紋を意味します。
(『会津戊辰戦記』より)

などなど。これを見るだけでも、なかなかひどいですよね。
上司がこのような調子ですから、その部下もまた同じ。当初は「王師」であるからと一応敬意を払っていた奥州諸藩も、風紀の乱れている薩長の兵に対する感情が、日々悪化していったのでした。
(自称)朝廷から派遣されてきた総督府のメンバーは次の通りです。

奥羽鎮撫総督:九条道孝くじょうみちたか(従一位)
副総督:澤為量さわためかず(従三位)
参謀:醍醐忠敬だいごただたか(従四位少将)
下参謀:大山格之助(薩摩藩士)
下参謀:世良修蔵(長州藩士)

目的は、会津藩と庄内藩の征討にありました。会津と長州・薩摩の因縁については解説不要でしょう。また、庄内藩がターゲットにされたのは、薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちにしたのが、庄内藩の見廻組だったため。もっとも、これは徳川幕府からの命令でした。江戸城下の度重なる不審事を追っていくと、バックに薩摩藩がついているらしいと知り、江戸城下を取り締まっていた庄内藩に、薩摩藩を糺すように命じたんですね。つまり、焼き討ち当時は合法的な行為でした。奥羽諸藩が「会津藩と庄内藩が罪人扱いされる理由がない」と怒るのも、無理はなかったのです。

実は公卿からも苦々しく思われていた

 さて、上記のメンバーのうち、九条道孝、澤為量、醍醐忠敬は生粋の貴族です。そんなわけで、実際に兵を動かすのは下参謀の大山や世良でした。
 大山が羽州(山形・秋田方面)の討伐を担当したのに対し、世良は奥州(会津・仙台方面)の討伐を担当しました。
総督府は初め仙台の養賢堂に置かれ、後に岩沼に移されました。
ですが、特に薩長二藩の暴虐ぶりは、公卿たちも密かに苦々しく思っていたようです。何と、九条総督の家臣の一人である戸田主水は、書き置きを残して脱走し、行方不明になりました。書き置きの大意は、次のようなものです。

「鎮撫と称しているが、鎮撫とは、皆人民を鎮撫するべき職掌であり、兵力を以て感服させるものではない。会津容保に罪がないのであれば、直ちに兵士を以て討伐するのは暴力でなくて何であろうか。庄内の如きにいたっては、その罪名がはっきりしておらず、問罪使を発し問責してその罪を認めたのならば、その首謀者を誅し、罪は寛大な処置にするのが至当である。もし罪を認めなかったのならば、征討することもできる。然るに両参謀は軽挙にも直ちに会庄両藩を征討しようとしている。二藩は強敵であり、もし一気に征服することができなければ、奥羽は必ず皆騒乱に陥る。そのような事態に及べば、殿下の進退はどうすればよいか。加えて、世良参謀は兵士を駆ってみだりに討ち入りをしようとし、自分は妓楼にいて快楽をむさぼっている。そのため、兵士は皆世良を厭うこと仇敵のようである。このようなことで、鎮撫の道が開けるだろうか。殿下に熟慮していただきたい」

そう、実は公卿メンバーと下参謀二人の間には、溝があったとも言えます。なので、本意かどうか分かりませんが、後に出される奥羽列藩同盟からの会津救済嘆願に対して、九条総督は、必ずしも「討会厳命」のニュアンスではないんですね。世良らのやり方に対して、「あいつら、やり過ぎだ」くらいには感じていたのではないでしょうか。
 ただし、王師(帝の意を受けた兵、位の意味です)を率いているのは、大山と世良。薩長を中心とした兵です。貴族のお坊ちゃん達が歯向かえるような相手ではありませんでした。

世良の密書

 世良は、四月二十日前後からひと月余り、「会津討伐」を実行させるべく、二本松・本宮から白河の間を移動してまわっています。距離にして五十キロほどあるのですが、会津藩の領土がそれだけ広大であり、国境もいくつもあったからなんですね。各峠の最前線に赴いては、仙台藩などの総督府兵を督励(という名の尻叩き)をして回っていたのです。
 最後は、白河から一旦岩沼(宮城県)の総督府に向かう途中で十九日に福島に逗留していました。そこで、大山宛に密書をしたためています。
 この密書の中身ですが、少し前に、三通の嘆願書を受け取ったことについて触れています。その三通とは、

• 会津藩からの嘆願書
• 奥羽列藩連名の嘆願書
• 仙台・米沢両藩主からの添状

でした。各種嘆願書の内容は概ね同じ。

• 容保公の恭順謹慎はもちろん、開城も止むを得ないと考えている。その心は真心から出ているものである
• 討会の尖兵とされている仙台、米沢藩及びその応援藩(二本松など)などの人民は、難渋している
→小規模ですが、会津と総督府軍の間で戦闘もありました
• このままでは、各地の領民が蜂起しかねない
• これからの季節は農作業で忙しく、各地の領民は戦争の為に飢餓にさらされかねない

というものです。そのため、討会(もしくは庄内征伐)を中止して欲しいという内容の嘆願書でした。
ですが、世良は断固としてこれを拒否。この頃には、関東各地で旧幕府軍が蜂起していた(上野の彰義隊や、宇都宮戦争など)こともあり、「奥羽皆敵と見て(原文ママ)」、江戸にいた西郷などに相談し、その上で一旦大阪や京に戻って海軍を率いて再度奥羽征伐に向いたい旨を明示しています。
また、奥羽列藩の代表者である仙台米沢藩に対しては「仙米賊は、心の底では朝廷を軽んじている」「弱国二藩は、恐れるに足りず」など、喧嘩を売っているとしか思えない数々の言葉が、書き連ねられています。
 この密書は、福島藩士鈴木六太郎に託され、「仙台藩には悟られないように、注意せよ」との指示を与えました。
 聞くからに、怪しさ満点ですよね(苦笑)。鈴木六太郎は、当時福島に置かれていた仙台藩軍務局に、この書翰をばっちり届け出ました。そこにいた仙台藩の瀬上主膳は、世良の手紙を見て激怒。姉歯武之進、田辺賢吉ら(プラス、福島藩士の遠藤条之助、杉沢覚右衛門、鈴木六太郎)は二十日午前二時頃、世良のいた金沢屋を急襲。世良は捕らえられて、翌日、斬首されました。

齋藤浅之助の談話

 世良は、福島では金沢屋を定宿にしていました。この宿の主人が、齋藤浅之助です。白河へ向かう前にも閏四月上旬に十日あまり滞在していたらしく、その時の様子も残されています。
 齋藤曰く、世良の容貌は

• 角顔
• 年の割には老けて見えた
• 身長は中くらい
• でっぷりと太っている
• 酒に強い
• 出かけるときはいつも洋装で、韮山傘をかぶっていた
• 髪型は惣髪(髷を結っていないヘアスタイル)で、髪を紐で一つに結んでいた

という風体だったそう。
 閏四月上旬の滞在中には、世良は福島町内で物見遊山と洒落込んだことがあったらしく、信夫しのぶ公園に齋藤らと出かけたようです。そのときに、興月庵という茶店で酒を飲み、従者の勝見善太郎や松野儀助は酒を飲まなかったものですから、「お前らは退屈だろうから、あの山に上って、この地図を引き合わせたら大方会津の方角も分かるであろう。一つ、行ってみてはどうだ」と言い、齋藤が暗に引き止めるのにも構わず(弁当に卵焼きが入っていたからというのが、その理由。眼前の羽黒はぐろ山は霊場であり、卵を食した者は登らないことになっていました)、「土地の者はそうだろうが、我々のような旅の者は一行に構わない」と言って、部下を向かわせた、というエピソードが残されています。
 齋藤には気を許していたのか、「飯坂いいざか温泉に行きたい」など言っていたという話も残されていて、会津戊辰戦記や仙台戊辰記に記されている「暴虐の輩」のイメージとは違った顔を覗かせています。

暴虐は小心者の裏返し


 世良修蔵については、はっきり言ってマイナスのイメージしかありません(苦笑)。ですが、齋藤翁の談話などを見ていると、必ずしも粗暴な性格だけではなかったのも、と感じさせられます。
 数々の暴挙も、ひょっとしたら、小心者ゆえの裏返しだったのではないでしょうか。「奥羽は皆敵」といった言葉や、援軍を得て大挙して再度奥州に攻め込もうとした姿勢からも、世良が追い詰められていた焦りが伺えます。
 それでも、「なぜ敵地で密書を地元の人間に預けた」とは思いますが(苦笑)。
→絶対に、密告されるに決まっています^^;
 世良をそこまで「会津討伐」に向かわせたのは、何だったのか。「第二奇兵隊出身」などのバックボーンを照らし合わせると、長州藩内における世良の屈折した心理や事情も見えてきそうなのですが、奥羽の地で、多くの人々に憎まれたのは確か。
 世良修蔵は、幕末に咲いた徒花。そんな印象を受けるのです。

©k.maru027.2022

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