生きる目的は、存在するだけで喜んでもらえる家族と友だちを幸せにするため

学生時代、「すべての人が、それぞれの夢・目標に向けて、全力で走り続けられる社会を創る」と、自分の人生の目的を掲げていました。
社会人になってからは、言葉を変えて、「若者が未来に希望を持てる社会を創る」と言い続けていました。

しかし、癌になり、明日死ぬかもと思いながら入院した時に感じたのは、「社会をどうのこうの」と語って努力したつもりになったとしても、最後、病室のベッドの上では何の価値もないということでした。

頭の中で自分が生きる意味を考えたところで、抽象的な「社会価値」など、ベッドの上においては何の具体的な意味も持ちません。たった1人の人間が社会に与えられる影響など微々たるものである現実の中で、自分が生きようが死のうが実質的には何の価値もないということを実感してくるわけです。

病気が発覚して以降、何のためにこんな病気や手術を乗り越える必要があるのか、無理して辛い人生を生きる必要もないのではないかという気持ちになることも多かった中で、手術の不安を乗り越えようと思う勇気、生きる意味を与えてくれたのは、家族と友だちでした。

父親が、「お前、死ぬなよ」と、食事中に泣き出す姿。
母親が動転しすぎて、おかしな言動を繰り返す姿。
友だちが遊びにきてくれ、学生時代のようにトランプで遊びながらも、心配してくれる姿。

そんな姿を見ていると、親・友だちに悲しい思いをさせないためにも、生きなきゃダメだなと元気をもらうことができました。
社会をどうのこうのと考えるよりも、お見舞いに来てくれる親・友だちがよほど生きる目的を与えてくれました。

生きていると、逆に「死ね」などの言葉を投げつけられることもありますが、今は、自分が生きているだけで喜んでくださる方が1人でもいる限り、生にしがみついて生き抜いていきたいと感じています。

そんなことを考える経験を経て、「あなたが存在するだけで、私は嬉しい」という言葉やそう言ってくれる存在が、人間にとって大きな意味を持つんだな感じました。それだけで人は幸せになれるのではないかと感じました。

普段、仕事をしていると、会社の期待を基準として人を評価する経験を多々してしまいます。仕事の役割としてはやむを得ないことと感じていますが、仕事の役割を離れた場では、「あなたが存在するだけで、私は嬉しい」という思いを、すべての人に伝えていきたいなと感じています。

最近の自殺のニュースなどを閲覧し、思い出したこと、私が取り組みたいなと感じたことを記載してみました。

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