見出し画像

【感想文】去年と先月、働くことに失敗して ~勅使川原真衣『働くということ』~


成果と能力を認められても嬉しくなかった→勅使川原本との出会い

昨年6月の私は、職場の「能力主義」に適応しようとした結果、すり減っていました。翌月には体調を崩して休職、10月には職場を去ることになりました。
マーケティングのコンサルタントとして、企業のweb担当者の方に提案と効果検証をすること、約1年。私が好んで選んだその職場において、「成果」とは、部署売上、お客様からいただく月額費用の合計や、お客様のサイトの"KPI"の達成のこと。そして「能力」とは、「成果だけでは測れない、個人のビジネスマンとしてのスキルやマインドのこと」でした。ちなみに私が伸ばすべき「能力」を定めることは、私と上司の共同作業でした。日々、私が次のクォーターで達成する「これこれの能力を身につけた自分の状態定義」から逆算して、毎週の1on1の振り返りを行っていたのです。
私の解釈では、「成果」「能力」の2軸で、上司やお客様に自分を選び続けていただくことこそが、「よく働くということ」でした。私が休職直前まで続けていたことは、例えば以下の2つです。
成果のノルマを満たすために、新規のお客様とのクロージングに自ら手を挙げること。能力がついていることの証明のために、日報や稼働管理記録を通じて「自分がいかに有益なスキルを効率的に獲得したか」を発信すること…。約1年、時間をかけて職場で認められつつあった私は、上司やお客様に自分を選び続けていただく方法をようやく「攻略」しかけていました。
どんなふうにすり減ったのか。象徴的なのはこれです。

同僚や上司のみなさんが「最近の君の頑張り、●●力、▲▲な姿勢、素晴らしいよ。来期からグレード★★に上げられそうだね」と言ってくださることが、全く嬉しくない。なぜなら、認めていただいている自分の「能力」は、選ばれるために演技した姿だから。今認めていただいても、来期はグレード★★にふさわしい「能力」の獲得を求められ、常に評価し合う組織・お客様からは逃れられないから。嬉しくない、高い評価すら怖い。

「能力」がひどく操作的であり、選ばれないことの辛さを聞き知っていた私ではあるものの、「高く評価されることすら怖い」とは…。そんな私が、長く耐えられるはずもなく…。
休んでいた夏、私は勅使川原真衣さんの『能力の生きづらさをほぐす』を読み、大学で学んでいた教育社会学で論じられる「能力」が、労働の現場で人々を苦しめていることを理解しはじめました。

問い尽くす組織開発

本書『働くということ 「能力主義」を超えて』は、第二章に組織開発の実例と解説があり、第三章に実践のモメントを案内しています。私はこの2章から学ぶことが多かったので、これら中心に書きます。
一元的な正しさで人をジャッジしそうになる管理職シンさんとテシさんの対話から、新人に求めてしまう「優秀」の固定観念を問いによってほぐし、持ち味や傾向を注意深く観察していくあり方が見えました。
私は、問い以前に重要なことは、テシさんが口酸っぱく説明されている「なんとかやれている今の組織が素晴らしいと認めること」だと考えます。実際に倒産しているわけでもなく、人間関係で大混乱が起きているわけでもないのに、能力が足りない/余裕がない/成長が見られないと焦る管理職の方々を見かけます。そうした方々に対して、テシさんの発言の効果は、なんとかやれている=機能を持ち寄っている状態をまずは認め、「優秀」や「能力」への飢えから距離をとることにもありそうです。
今の形でも決して悪くはない、ある指数が高いモデルを組織に加えることが理想ではないと、思考を落ち着けていくシンさんの姿が印象的でした。
同じ章で勅使川原さんは、「強い個人」が「よい社会」を作るという発想の根深さに言及しています。人材業界・マッチング業界・育成ゲームなどなど、個人の属性やパラメータが垂直的に並べられる発想が溢れているこの時代に、私たちはこの発想に囚われがちです。「働くということ」に限らず、2名以上が集まって物事を営むときには、組み合わせ、シチュエーション、声の掛け方など、決して完成したり維持したりできない変数のもとで「なんとかやっている」現状を大切にしたいものです。

周りの他者と協働の網の目をこしらえる

第三章「実践のモメント」から、私が現職で陥りがちなモード(態勢)との距離のとり方を学んだ気がしますので、書きます。
勅使川原さんのクライアント先のエース社員エリコさんのお話です。

自分の腹の中の言語化と、同様に他者の腹の中にもよく耳を澄ませ、ときに突っつき合いながら聞き出し、目を配り………っていうことが、強いて言うなら「仕事力」なんだなって。そういうモードに気づけたのが、曲がりなりにも私のブレイクスルーかと。

『働くということ』p.191

競争の激しいJTCから、気鋭のスタートアップ企業に転職されたというエリコさん。自分の仕事が明確ではなく、組織のパーパス(存在意義)に対して担当者本人がやれるだけのことを最大限やっているか、を問う組織とのことです。
能力のある人を選び、評価する緊張関係に慣れきっている職場からの転身で、失敗を認めたり助けを求めたりできるように変わった彼女は、私にとって見倣いたい姿です。さらに、エリコさんは組織形態の側面が生かされる事業を選んで、自身のモードと組織の運営体制の問い直し続けようと考えられていて、視野の広さ・柔軟さが伝わりました。

冒頭で書いたように、私は、能力や評価、選ばれるための働き方に慣れつつありました。転身して今があるわけですが、環境や組織が変わったから万事解決ではない、ということを痛感します(後述)。エリコさんのように、能力のアピール競争ではない関係のあり方に親しむなかで、周りの他者と協働するモードをもつには、モヤモヤする自分の言語化と他者に耳を澄ませることの積み重ねがあったそうです。1人でビジネスパーソンとしての完成を目指すのではなく、助け合いの網の目を作っていく実践が「優秀」な彼女の働きやすさ・安心感を支えていました。
総じて、「周りの他者と協働の網の目をこしらえる」実践は、私のモードを考える上で非常に有益なお話でした。

先月の挫折を超えて

私は先月、自分の「優秀」さをめぐる周囲の評価で、目が回っていました。
会社は、JTCよりかはエリコさんの現職に近い、「会社のパーパスに叶うなら何をしてもよい、協調的でフラットな」ムードです。
上司からは、入社以来寄せていただいた信頼のおかげか、複数の営業施策の実施と、効果検証の方法までを踏まえた立案、新規事業立ち上げのための社外関係者との日々のミーティング、に「バランスよく」注力するよう期待をいただきました。
もちろん私1人でこれらを回すわけではなく、私は営業の部署の「司令塔」とのこと。パート社員の方を含めた3人の女性メンバーに、「分かりやすくブレのない指示をして引っ張っていく」よう応援されました。

端的に、先月起こった(起こした)ことは、メンバー2人からのストレス告白と、私のリーダー辞任の申し出です。

上記の上司からの期待は、「『優秀』な今村さんには、司令塔として俯瞰的に事業を見つめた、強いリーダーシップをとってほしい」というもの。私は割と忠実に、やや演技を含めながら、私なりに効率的で明確な指示出しを行っていました。約5ヶ月、「私がリーダーなんて…」と遠慮しつつも、続けてみました。

上司の期待に応えて力を発揮しようとした結果、メンバーのお二人からいただいた言葉が以下です。
「今村さんは『優秀』だから、質問や相談をしてよいか遠慮してしまう」
「オフィスで指示をいただいたり、私たちから提案したりする際、今村さんの表情が怖い」
お二人とも、なかなか他の方に相談できず、ストレスで休む日が出てきたとのことでした。
私はパート社員さんとは業務時間以外で話す時間も持てず、コミュニケーションが不足し、気づくことすらなかったのでした。ショックでした。私が期待に応えようと振る舞う姿ゆえに、複数のメンバーを苦しめていたとは…。罪責感で、自分の無邪気なリーダーシップのとりかたを、情けなく思いました。

先月、この経験を踏まえ、私は上司に以下のように伝えて、営業部署のリーダーを降りました。
「私は今、上司から求められるリーダー像を体現する気はない」
「誰かに苦しい思いをさせてまで、私が『成長』するための経験を積んだり、組織を『強く』したりするつもりはない」

こうして一旦""1人部署""に異動し、お客様やプロジェクトごとに、他部署と連携するポジションに移りました。今は、新規事業を中心に、リーダーシップを演じることなく、同僚の方々に通常モードの自分を知ってもらおうと、心がけています。
この異動を希望したのは、勅使川原本『能力の生きづらさをほぐす』等の学びがあり、組織での自分の立ち居振る舞いを見つめ直すタイミングだと考えたからです。

この数ヶ月は、自分の「優秀」をめぐって鈍感に役割を演じた結果、協働の網の目を自ら絶つ時間になっていました。ある方からの「優秀」「能力がある」という評価を一元的に正しくよいものと捉えていては、協働する他の方から疎遠に思われてしまい、協働を難しくしてしまいます。
今月、『働くということ』を読みながら、たとえ肯定的なありがたい評価であっても、「働く」うえで武装になってしまうようなスキルやタレントは、まずは疑おうという考え方に変化がありました。
前職では、求められる「成果」「能力」を攻略しかけた結果失敗しました。今回は、ナチュラルに働いているなかで認めていただいた「優秀さ」が、協働を妨げて失敗しました。
いずれも人を選び、評価することの不可能性をしみじみと感じる経験です。

著者の勅使川原さんが読み手に繰り返し働きかけるように、「必ずこのような実践をしよう」「こういう汎用性が高い力をつけよう」という話ではありません。その意味で、ビジネス本(自己啓発本)の類とも、教育社会学の論文のテイストとも違う形で、「一旦現状どおりでも悪くないんだよ」「他者と働くって、本当はこうありたいんだよな」と自己点検をするような読書でした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?