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鹿野政直 沖縄と女性史(読書録)①

 鹿野政直氏とは

 鹿野政直(かの・まさなお)氏は1931年生まれの歴史学者である。専門は日本近代史、思想史。早稲田大学名誉教授。後述するように、「民衆史」というジャンルで偉人として評価されない近現代の民間人たちの歴史を研究されている。以下の著作を主に扱いながら、大学院では演習の授業を行い、レポートを執筆した。単位取得にはおよそ関係がないものがドラフトであり、大幅に加筆修正した上で私の思考の記録としたい。鹿野氏から学ぶことはあまりに多いため、私にとって私淑の師である。

  1. 『兵士であること 動員と従軍の精神史』(朝日新聞社〈朝日選書〉、2001年)

  2. 『鹿野政直 思想史論集』(全7巻:岩波書店、2007-2008年)の「2 女性 負荷されることの違和」

  3. 『沖縄の淵 伊波普猷とその時代』(岩波書店、1993年/岩波現代文庫、2018年8月) 

「発酵」する民衆史 嗅ぐように読むこと


 嗅ぐように読んだ。私が鹿野政直氏のものした著作と向き合った1年余りの期間の感想である。ここでは、筆者の感懐とともにレポートのタイトルの趣旨を述べるところから始めたい。歴史研究を専門としない私が、民衆史というジャンルから何を学んだだろうか。民衆史の姿勢、特に本講義を通じては鹿野政直氏が記述し議論する姿勢が、大切にしている考え方はどのようなものであっただろうか。

 私が高校を卒業するまでに触れた歴史は、偉人中心、政治史中心であり、現在ある国を基点に遡ることで過去の国を学ぶ、「大文字」の歴史だった。それは、部分的に自覚できていたことではあったが、「大文字」とは強者・支配者・男性・現在も強勢を誇る民族や国の歴史だ。これに対して、K教授が講義の初回で概要を教えてくださった「民衆史」とは何であり、どのような考え方を採用しているのか。私は、「民衆史」を「大文字」の歴史の対極にあるものと単純明快に捉えてはいない。そうではなく、鹿野が着眼した資料の多彩さや固有の筆致を通じて、「民衆史」とは、偉人や政治家たちの「ナニヲシタカ(『鹿野政直思想史論集第二巻』)」の歴史では語られない。そうではなく、名も知られぬ人々が「イカニイキタカ」を嗅ぎ分けた先に切り拓かれた、研究者が非-文字の空間から凝縮してはじめて形をもった、いわば「嗅覚でもってたどりつける人間の歴史」だと考えている。

 さて、鹿野が頻用する表現のひとつに、「発酵」がある。以下のような例だ。

「それはあえていえば、「国」や「大君」にでなく、「兵士」にみずからを融解してゆこうとする思念や想念の発酵であった。」(『兵士であること』p.32,l11)

(鹿野政直『兵士であること』p.32,l11)

 死後数十年にわたって、自らの言葉を残して人生を終えられる人間は、大学で学ぶ私たちが想像するよりずっと少ない。だが、鹿野の文章を読むことで、名も知られぬ人々の身体や神経が経験した理念や想念は、たとえ文字では読まれ難いような現れ方であっても、「発酵」されたものとしてモノや手紙や絵画や遺跡にこびりついていると、たしかに感じられる。私のイメージでは、醤油の醸造所の暗がりで、樽の中で寝かせてある豆麹が、泡をぽこぽこと立たせながら、濃密な塩味に漬け込まれながらこびりつく様子である。そしてその臭いは鼻の嗅神経に大抵は強烈な不快感を与えている。

 名前が残らない人々の思念や想念はこうした豆麹のように発酵して、エキスとなって痕跡をとどめていることがあるのだろう。民衆史が資料とした言語表現は概して明瞭ではないし、右から左に読み通すことで「民衆一般」が「イカニイキタカ」を手に取るようにわかるものでもない。言葉を残して人生を終えるわけではない多くの人々を甦らせうるのが、鹿野のとったようなアプローチだろう。すなわち、資料の断片からあらゆる情念を嗅ぎつけ、村々や小規模な師団や小家族や女性運動に起こった出来事を背景にして、「臭い」に形をつけるような歴史学ではないだろうか。

 冒頭に戻り、私は、嗅ぐように鹿野の文章を読んだことを強調する。読むことにかけては同年代の多くの人間より多く実践してきたはずだが、鹿野が掘り出してきた、言葉尻だけでは到達しがたい人々の生きた歴史を、好き/嫌い/貧富/甘い/苦いといった無数の臭いを嗅ぎ分けるように読むほかない。誤読したり、忘却したりすることも間違いなくあるだろうが、発酵された人間の思念・想念を次世代に保存するにはこの発酵という方法が必要であり、それを大いに活用して分析し仮説を立てる研究者の営みが不可欠だったに違いない。視覚情報ばかりで、他の研究者の言葉を淡々と読み通すばかりで、人文社会科学の道を修めることはできない、と自覚した。それを悟っただけでも、私が「民衆史」に出会った価値があった、というものだろう。発酵した臭いに鼻を曲げたとしても、過去を生きた人間の痕跡だと感じられるならば、「大文字」の歴史では決して理解することのできない事実を明らかにすることができる。嗅ぐように、民衆の歴史に潜ること。忘れ難い経験だった。

伊波普猷『沖縄女性史』

 本章でのテーマは、伊波普猷が彫琢した「女性史」というジャンルから全貌が見えてきた、植民地における女性に対する「暴力」の構造と、琉球の女性の狂気。この2点である。

 Domestic Violenceの被害者としての沖縄≒女性


 ゼミの議論の中で、「ヤマトと沖縄の関係性は、現代でいうところのDV(夫婦間暴力)と相似している」という気づきが複数の参加者から提起された。その含意は、父なる権威・権力に服属する女性的な存在が継続する暴力に曝されており、婚姻関係と愛情表現によって暴力からの解放が閉ざされているというものである。本項ではこの発見を再度、沖縄の島内の男女の関係性から確証し、ヤマトと沖縄の関係性にいかに類似しているか、精緻な言語化を試みる。

琉球社会の尾類をめぐる暴力

 まずは沖縄の遊郭制度の主体であった尾類に対する暴力の構造を概観する。そもそも伊波が示したように、尾類という言葉は17世紀後半からある言葉で、向象賢の時代に遊郭に収容させる公娼制度が始まっている。ここでは尾類は、もともとは明清の使節をもてなすために売られてきた女性であり、既に外交上の役割を果たしていた。沖縄の島々と明清や薩摩との関係の中で、特徴的な服装で区別され、売られる交易関係の主体として長年機能していた。隠蔽されたり禁を破ったりした尾類=娼妓は厳罰に処せられ、貧しいまま移動の制限を強いられたことを考えれば、現代の感覚から言って暴力の被害者であっただろう。
 さて、この暴力や毀損の構造が、沖縄の島内での関係性と結びついていたことに、私含め多くの読者が感じるところがあっただろう。以下の描写である。尾類に関して、以下の記述がある。

「旧藩時代には、那覇の各学校の忘年会は遊郭で開かれたが、そこには先生も生徒も手々に尾類を一人宛携えて出席したとのことだ。そしてその日配偶のない者は朱紙(のし)をつけた炭箱を首にはかせられた」

伊波普猷『沖縄女性史』p.106

 ゼミの議論でもこの慣習への衝撃が大きかった。なぜなら、公的な学校が遊郭に尾類を携えて集い、それができない男性に目印をつけるほどに貶視の対象とされるような沖縄の男性文化に驚いたからだった。私の発言を振り返ると、現代でも性的魅力をもつ女性を伴うプライベートな空間で、恥や秘密を共有することが信頼と地位の形成に繋がるような男性の社交文化がある(このようなことを述べたように記憶している)。実例を伴ったこの説明で意図したのは、権力志向の男性の文化として、遊郭制度を社交上のツールとして活用する歴史は長く根深いということだった。「朱紙をつけた炭箱」のように、視覚的にコンプレックスとなる事柄を明示して宴の場での社交の話題にすることが、旧藩時代の沖縄にも尾類とともに存在していたのが、この歴史の一面だと解釈した。

 まずもって出席者が着眼したのは、権力志向の男性文化の中にある精神的暴力であった。そこでは沖縄の上流社会の男性が、尾類を男性に付属するモノあるいは力の象徴として扱っていた。さらに、島国が大陸との間の外交上の役割を果たす以上に、島内での序列編成を強固にする道具として尾類が用いられたことと、士族たちが傾城証文の規約を破って尾類を自らの都合のよい法的地位に留め置いたことは、尾類を人間の法で裁けない法外の者として他者化していたという意味で、尾類に対して解放を許さない暴力構造ができあがっていたと見ることができる。

 続いて、経済的暴力の観点からも、尾類解放は困難を極めていたように考えられる。というのは、女郎屋と料理屋と待合を兼ねた辻遊廓の制度が、経済圏としても貧しい琉球女性の生活の手段としても、成り立っていたことが確かめられる。伊波は『沖縄女性史』で、「一日でも早く打破した方がよいではないか」「辻遊廓の制度を打破して、責任ある地位に立つ人々が平気で出入するを憚るような制度にしたい」(伊波 前掲:109)と記した。だが、ゼミ出席者の佐藤(有理さん)が議論で述べたように、辻遊廓の制度を突如打破しても、貧窮の女性たちが生計を立てる手段が見つかるわけではない。

 「社会のため」とエリートたる伊波が辻遊廓の制度打破を喝破したとき、その理想的制度の崩落が貧窮の人々の生存を脅かすことであったならば、「社会」の中から尾類たちは排除されるわけである。したがって、尾類を解放する論者の理想、その顕著な例として見られる伊波の制度観のもとでは、経済的な抑圧を受け続けてきた人々の解放を夢想しながら、現実的な手立てを何も供給できないという問題が大いにリアリティを持つのだ。制度の打破による生計手段の喪失が、より苛烈な経済的暴力として尾類を苦しめたかもしれないことからも、尾類に加えられる複数の暴力を考えることができる。

まとめ:<尾類ー男性>と相似する<琉球ーヤマト>

 まとめとして、鹿野が解説で述べたように、「「新領土」=「日本最古の植民地」とされた沖縄のイメージが、売られてきて性的に征服される運命にある「尾類」の姿と、二重写しにされていたともいうことができる」(伊波 前掲:319)の記述が、非常に説得力のある指摘だと受け止めている。つまり、外交上の都合で性的に征服され、「女遊び」などの陋習で蔑視を受け続ける歴史の流れにあるのは、尾類と沖縄がそれぞれ置かれる従属関係である。性的な征服のイメージのみならず、経済的な暴力=搾取の構造に沖縄が置かれていることに気付く回路としても、尾類の制度が温存される非対称な権力関係の自覚は芽生えたのだろうと考える。伊波が尾類を論じることを女性史の糸口としたからこそそう考えるのかもしれないが、尾類や遊廓に顕著な沖縄の男女関係を疑うことができた男性知識人だけが、日本最古の植民地である郷土の搾取関係に、イメージから迫っていたのではないだろうか。

妻に対する暴力

 続いて、遊郭制度で尾類が受ける暴力的な構造と並んで、遊郭に通う夫をもった妻たちへの暴力に視点を移したい。先に言及するが、伊波自身は「金で買われてきた気の毒な女と寝る気はしない」と述べる同情的な態度で遊郭制度に個人的に抵抗し、心から違和感をもっていたことが窺える。しかし、このような性労働の関係性を「気の毒」だとする前提には、近代的な婚姻関係こそが正当だと考えるロマンティックラブイデオロギーがあったのではないか。近代的な婚姻関係を奨励する一方、前述の「雑婚の奨励」あるいは因習で婚姻関係を結んだ妻マウシへのネグレクトは、沖縄の「妻」問題という、尾類制度と対をなすもう半面として、取り上げずにはいられない。
雑婚の奨励については、結婚して妻になろうとする女性の選択権を奪う、優生思想に基づいた構想だということで既に否定的に述べた。そこでここからは、妻マウシをめぐっての伊波の彷徨と顛末から、妻への暴力を論証していく。

 伊波とマウシは因習により「たぶん東大時代」に結婚したが、「妻には伊波家の『嫁』として終始する日常のみが待っていた」という実情であった(鹿野 前掲:80-1)。新知識人の帰郷の段階から、この宿命は定められていたと言ってよく、妻が「新しい女」として解放されるような回路は閉ざされていたと言えるのではないか。これは伊波に対する批判というよりはむしろ、家庭に入った女性にはもはや性的魅力や知的な対話を期待しない男性本位の結婚のあり方、そして妻は実子を育て上げることのみを任され、そのためなら労働して家計を支えて「(男逸)女労」を体現する、沖縄の近代知識人家庭に対する指摘である。

 そして伊波が真栄田マカト(冬子)と東京で同棲するようになったのち、沖縄に取り残されていたマウシは、1941年に死去している。鹿野は伊波普猷の生涯を著しているのでここに焦点が当たることはなかったが、移住慾の高い夫に見放されたマウシがヤマト化されてゆく沖縄社会でどのように生計を立て、何を考えていたのだろうか。実際に働き手の男性を失った女性がその喪失をどう受け止め、生計を立てる(あるいは経済的に依存する)のかについて、本節では情報不足ゆえ取り組まない。だが、喪失や怒りの感情を女性が示すときの男性による解釈については、次のnoteで検討したい。

 立ち返って、ゼミでの議論では、そのように運命づけられていたマウシの不遇を悲しむ一方、「伊波も比嘉も、それぞれの仕方で、因習的男性からの新生への孵化の過程をもがいていたといえる」(鹿野 前掲:84)というのは、伊波に対する評価が甘いというのが大方の意見だった。その批判の根幹は、妻マウシを「廻らない車輪」に喩える程度で基本的に自身の夫婦関係を表現しない伊波を、その沈黙をもって「新生への孵化」と呼ぶのは評価している点がよくわからない、というものだった。関連して、伊波が表明した期待が「今や沖縄青年は教育ある妻を与えよと叫んでやまない」という女性に対してのものだったが、その動機に他力本願な傾向を見てとるので、伊波の主張は批判されるべきだと考える。ここには伊波自身がそう望んだように、男性の名士と「対になる」存在の女性への希求があった。伊波が沖縄の移住慾のある男性を代表して因習的な女性を変革したいと願ったのは切実だが、「対になる」ための女性は若年の未婚の婦人たちに限定されていた点で、切り捨てがあったものと見てよい。ここに伊波の活動の限界を感じ、既にある妻(マウシを代表とする)に対するネグレクトが現前している。

 他方でたしかに、美人投票に対する批判を寄せたり、「もし沖縄の女子中姦淫を為す者があったら「爾曹のうち罪なき者まづ彼を撃つべし」だ」(鹿野:83)と述べたりした点で、伊波の教育的配慮、エンパワメントの思考については称賛されるべき点だと認めたい。
最後に、妻に対する暴力的な存在としての父=ヤマトに関して、伊波の言語学の観点から辿れば、以下のような鹿野の小括が導かれる。

「「母」つまり下位者であることは、より劣位の存在との内容を持つ以上に、大地に類比される基本的恒久性を具備する存在という意味をもち、逆に「父」は、上位者のようにみえて、仮そめの存在でしかないとの認識にわたくしたちを導く。」

(鹿野政直『沖縄の淵』:342)

 ここでは、母であることが決して劣位の征服される存在というだけではなく、永遠の安定感を含意していることが指摘されている。「母」と「父」をそれぞれ琉球・沖縄とヤマトに対比したこの文から、表面上は対等な婚姻関係にありながらも、仮そめの父から母への構造的な暴力関係が続いていることには嘆息してしまう。沖縄戦以降1972年までの沖縄は米軍の施政下で抑圧され、日本に復帰してからは軍事的な拠点でかつ経済や教育の発展が遅れたままに残される地域として、沖縄は不均衡なままに「包摂」されている。つまり、婚姻関係にありながら仮そめの上位者に暴力を振るわれる「妻」としての沖縄が見捨てられ、遅れたままに大国の都合に左右されることから、ヤマトによる琉球に対するDVの構造というのはリアリティを保ったメタファーとして持続しているということが言えそうである。

 学生最後のレポートを書き終えたので、気持ちが乗ってしまい、大幅に加筆したレポートをnoteで公開することにした。鹿野政直氏を知る読者は限りなく少ないと予想しつつ、読みごたえのある文章を心がけたい。

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