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散らかった部屋で何思ふ・第22回 “『生産性』という『歪んだ物差し』を捨てよ”

おかげさまで、少しずつではあるが、声も戻って来つつある状態だ。しかし、身体は依然として思うように動いてくれない。回復までにはもう少し時間が必要なようである。

さて、最近の世の中を見ていると、”生産性の有無”で人間の価値を決めているような人が散見される。

そもそも、”生産性”とは一体何だろうか。

”生産性の有無”という概念は正しいのか?

彼らの云う”生産性の有る人”とは、恐らく、”ちゃんと働いて、ちゃんとした生活を送っている人々のこと”を指しているように思えるのは私だけだろうか。

何が言いたいのか、それはつまり、”生産性の有無”という言葉を使って、”社会的弱者を世の中から排除しようとしている”、ということである。

”生産性”という言葉を使って、人々の価値に優劣をつけている。”優生思想”に通ずる危険な考え方であると私は思う。

生きている=何かを消費している=生産性がある

そもそも論ではあるが、”生産性が有るとか無いとか”という基準は誰が決めているのだろうか。その定義すら曖昧であるのにも関わらず、簡単に人間に優劣をつけてしまうのは、非常に愚かな行為であると私は考える。

働いていない状態でも、働けない状態でも、ハンディキャップを持っている状態でも、引きこもりの状態であっても、”必ず何かを消費している”のだ。

人間は飲まず食わずの状態だと生きていけない。つまり、生きているということは、”常に何かを消費し続けていること”ということになる。

消費する行動は、生産する側を助ける。需要があるから、供給も生まれるのだ。

今、何気なく飲んでいる飲料水も、小売店の人や、卸売店の人、そして生産者たちの”所得”となる。

電気を使っていることも、インターネットを使っていることだってそうだ。

日々、生きているだけで、この世界に生きるすべての人々には価値があるのだ。この大前提の考え方が歪んでいる人が多いように感じているのは私だけではないはずだ。

”歪んだ物差し”は捨てるべきだ

先にも述べた通り、人間は生きているだけで価値があるのだ。

その大前提を無視して、一個人の”歪んだ物差し”によって、人間に優劣をつけるような論理を振りかざすことは、とても傲慢で愚かな行為であると私は断じる。

今こそ、その”歪んだ物差し”を捨てるべき時に来ている。私はそう強く思っている。

この世界には、”生産性の無い人”など、一人も存在しないのである。その事実を忘れてはならない。

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