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びっくりのインド ● 20 ● レストランで食事する意味とは?

ステーキなら 1 パウンド (≒ 450g) を注文するほど私は  肉派だ。
しかしインドでは牛は 神聖なるもの
牛が道路の真ん中に座って渋滞を起こしていても、クラクションを鳴らすことなく、どの車も避けて通る。
その国で 「サーロインステーキ、カルビ、大好きです!」 なんてことはちょっと言えない。
逆に  は  (けが) れているから彼らは食べない。
メジャーな肉で残すは  だけ。
ところが海外で鶏を食べると、日本は鶏のみならず卵も非常に味が濃くて美味しいことに気づく。
とは言え鶏のすごいところは、少々味が薄くても、臭くて無理 というのがないことだ。
インドでは鶏と同じくらい マトン を食べるが、マトンは当たり外れが多くて下手すると匂いがきつすぎるから、わたしはチキンを食べた。

ここでひとつ問題があって、メニューがヒンディーだと何を書いてあるかサッパリ分からないことだ。
私にはウニャウニャした文字が並んでいるようにしか見えない。
英語のメニューがあるところに何度か行ったことがあり、マトンやチキンのメニューを見ると、どの部位をどう料理しているか分からない料理がいっぱい並んでいて、「どうしよう…」 と困って思いついたのが、ベジタリアンのレストランに行くことだった。
インドにはベジタリアンのレストランが多い。
野菜だと、どう料理されていても 「これはどうしても無理」 なことはまずないから、野菜料理とごはんを組み合わせれば腹を満たせる。
野菜の名前をいくつか覚えて、と言うより字面を覚えて注文した。

実はわたしが好んで食べる野菜は、土の中で育つものとキノコ類だけである。
土の上で育つもの、つまり葉っぱ類は嫌いで、サラダ を美味しそうに食べる人を見ると 「この人はひょっとして子供のときに 『 野菜は体に良い 』 とか 『 野菜を食べて偉いね 』 とか言われ続けて洗脳されてしまったのではないか...」 と疑いの目で見てしまうくらいだ。
しかし、その葉っぱもカレーになると原形がなくなって何の野菜か分からなくなるので、むしろ平気だった。

私が夕食をしていたエリアで見る 典型的なレストラン は、1階が厨房になっていて、店の前に胸の高さくらいのテーブルが幾つか並べていた。
立ち食べ が基本のようだ。
ちょっと良いレストランには2階席があって、テーブルについて椅子に座り、ちゃんとした皿で料理が出されて、見るから外人 の私にはスプーンを持ってきてくれた。
ただし、立ち食べと全く同じものを注文しても2階席では値段が高い。
正確な値段を覚えてないが、私は2階で食べて 200円前後払ったと思う。

2階席で食事をするのは、金持ちの 家族 だ。
私のように一人で食事をしているのを一度も見なかった。
そう言えば日本でも、私が小さい頃 (1960~1970年代) は、外食 (蕎麦、うどん、丼などを食べる店屋や一杯飲み屋は除く) は贅沢な ファミリーイベント だった。
普段よりちょっと良い服を着て、靴下を履いて、草履ではなくて靴を履いて、出掛けた。
70年代の後半になると、食事が娯楽になり、家族の誰もが各々の友人と外食したり飲みに行ったりするようになる。
あっという間にファミレスの数が増えて、外食はもはや贅沢なことではなくなった。
ご飯を作るのは面倒だから外で食べる という言葉を耳にするようになったのも、この頃ではないだろうか。
90年代には、外食が 美味しいレストランを選んで食べる と 簡単に食事を済ませるための手段 に2分化されたように思う。

インドに住んだことで私は、外食が、私が食べるものを他の誰かが作って皿に盛り、それを別の人が給仕し、また別の人が後片付けをすること、それは自分の労力を他の誰かに委ねるということ、それにお金を払うということを思い出した。

簡単に食することができる のは社会が発展した証しではあるけれど、インドの人たちがレストランの前で楽しそうに立ち食べするのを見ると、これからますます発展するであろうインドが、現在の先進諸国とは異なる形で成長することを願う。


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