妄想:なんでも国産化。その行く先は

***** 自身でできる範囲の技術力を駆使し、先ゆく国々の10年前の文化にとどまろうとする。「それで、いい」と人々も思うようになる。「できんことはできんのだ」と開き直る。先ゆく国への羨望も深まり定着し、なかば悪意に変貌していく。

「自分たちは、ただしい」選択をしたと思い込む。そうしなければ、相対的に "遅れている" ことが "劣っている" ことだと認めることになる。意地でも、それはできない。

少子高齢化があっという間に進んでしまい、社会全体が老齢でできることがすくなくなっていく。期待を寄せる次世代たちは、なにも挑戦しない。それは、親たち世代を見ているからだ。若くして脱力で生きることを学んでいる。

稀に外国人と接する機会がある。着飾っているわけではないが、はつらつとした所作がきらめいて見える。先ゆく文明は寛容の精神も育むのか。上からではなく親愛の面持ちで接してくれる。それを仏頂面で対応する自身の恥ずかしさやゆがんだ屈辱感に苛まれる。「あんなふうに、はつらつと生きてみたい」と老いた頭で夢を見る。

「昔はこんなではなかった。卑屈に見えるかもしれないが、親愛には親愛で返した。文化・習慣で違いがあっても、互いに理解しあおうと身振り手振りで伝えあっていた。それが、今の自身ではできないし、その姿を若い人たちに見せることもできない。」

今日も主席から激が飛んでくる。「われらの文明は何千年も培った民族の宝である。民族が一つになれば、できないことはない。本日の人民に割り当てられた労働を完結しよう!目標を達成しよう!次の世代の目標となるように、民族の誇りで勝利を手にしよう!」

これには「できんことはできんのだ」とは言えない。ただ、手を動かし足を少しでも前に運ばせる。そうするしかない。頭で考えても無駄なのだ。動け、動け。なんのために?それを打ち消しながら、動け、動け。

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小さいころに、文化大革命の様子を、日々の報道から垣間見聞きした記憶があります。当時の人々のイメージは、妄想のような感じでした。当時と今の違いは、次々と次世代が生まれ育つこと。これより先、それはない。だから、妄想の中は少子高齢化となりました。

彼国は、今、また、最先端の経済を追うことをしなくなりつつあると認識しています。最先端から締め出され、国内だけで完結する経済へ移行しようとしているように見えます。おそらく、肝心の消費力がどんどん衰えていくのだろうと思うのです。故に、旺盛な需要が枯渇していき社会は活性化しなくなる。

これも、妄想にすぎないのですが、なんだか身近に起こりそうな予感もあって、隣人だけの出来事とも思えない。東アジアはどうなっていくのか。少子高齢化という共通現象で対応は分かれていくのでしょうけれど、日本はどんな国になっていくのか。

旧盆を迎えて、その先をぼんやりと描いているのです。

#日経COMEMO #NIKKEI

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