優秀・秀才の定義を「平等に幸福を分配できる人」としたら
どうなるのでしょう、東大・東大卒の人々は。
「幸福は個人の感情」だとして、それを生み出す達人たちが優秀で秀才と称される人々。個々の幸福感を満たしてあげられる東大・東大卒の人々。
その定義の人々であれば、リンクに書かれている事件は、起こりえない。学んでいる最中に発生すれば卒業できないから。入学しても卒業できなければ、優秀でも秀才でもなくなります。
一方、世間では東大・東大卒の人々を「平等に幸福を分配できる人」として受け入れているか。私にはそう見えないのです。世間では、「何某かの利益をもたらす人々」として受け入れている。利益にはステータスも含みます。政官財学民と、様々な空間にリーダーとして組織・団体の象徴として存在している優秀・秀才の人々。組織・団体の利益をもたらす権威である存在なのだろうと思うのです。
庶民は自己実現をするとき、権威に寄り付きます。権威はさらに高みに上るために寄り付く人を吟味し利用していきます。権威が高く昇れば紐付いて一緒に登れる寄り付きの人々。権威の背中を押しながら、いつか紐を切って奈落の底へ落そうとします。
その生業の中に「幸福の分配」は存在しているのか。政官財学民各々の空間に住まう人々の幸福に目が向けられているか。優秀・秀才の人々に向けられた本質的な課題だろうと思います。その課題を真摯に受け止め解決していく様が、優秀であり秀才と称されるのではないかと思うのです。
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