妄想:恍惚の自由を束縛するもの

私の両親は、晩年、認知症(中程度)になって亡くなりました。本人たちは自己を認識したりしなかったりを行き来し、周りに頓着する様子もありません。私は時に悩み恨みたまに罵声を浴びせ秘かに泣いて。親がわが子と認知している時間は笑って過ごしました。

認知症はなぜ存在するのか。

どこかで聞いたのですが「死の恐怖から逃れるため」と解釈するのだそうです。老いて死が間近になってくる。それまでは、時空と論理の中で自己を認識し生きていたのです。その自己が無くなるという事実。その恐怖に打ち勝つ方法として、ニンゲンは、宗教や精神世界を納得のいく形で表す教義などを開発してきたと解釈しています。ですが、現実的な論理が生活の基盤となっている今の文明では、恐怖がそのまま残ってしまう。

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神がいるのか宇宙の法則なのか、その存在はやさしさで「認知症」をニンゲンに与えた。ニンゲンは生まれてから活動期までは現実を重視し生きる。現実にばかり目を奪われ、そのために現実を理解するための論理が生み出され、それにより次の現実が作られる繰り返しの中で、"やさしい存在" は忘れ去られていく。

晩年、ニンゲンは現実から徐々に離れた生活を送るようになる。やがて、自己が無くなる日がやってくることを現実として受け止めることになる。

現実だとは信じたくない。抗う気持ちで狂うばかりに悩み続ける。その段になって初めて "やさしい存在" を希求するのだ。求められれば応える "やさしい存在"。ある時は、瞬時に現実を実行し、ある時は、恍惚を与える。

恍惚を与えられた人は自己を認知しない。最早、完全に現実から切り離された存在となっている。時空と現実から解き放たれ、恍惚という自由を得たのだ。

だが、現実は甘くなない。

自己を認識しない人の周りには、その人をお世話する人がいる。実子であったり社会的なエッセンシャルワーカーであったりする。時空と現実から切り離された "イキモノ" と向き合う日々。とても厳しい現実である。

自己を認識している頃を知っている人々。その人々にしてみれば、あの頃とは違うどんな意思疎通も通用しない現実に、いら立ち悩み悪口雑言を吐きつつ自己嫌悪に陥りそれでも "あるべき姿" に戻ろうとして時空と論理を駆使する。それが、自己を認識している人々のやさしさである。

自己を認識しない人にとって、どちらが "優しい存在" なのだろう。

活動期の頃に引き戻してあげる優しさか、恍惚の中で自由に時空を飛び回る優しさか。

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ちょっと、妄想が中途半端になりました。私には結論が出せません。医療が進むことには賛成ですし、意思疎通のできない人々の自由とは何か、ここも、しっかり考えていきたい。どちらも、現実なのだとあらためて思った次第。

※「認知」について、参考にした情報
コトバンク参照
デジタル大辞泉 「認知」の意味・読み・例文・類語
1 ある事柄をはっきりと認めること。「反省すべき点を認知する」
3 《cognition》心理学で、知識を得る働き、すなわち知覚・記憶・推論・問題解決などの知的活動を総称する。


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