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慈悲深いミソジニー

今回はもう少しこのあたりの話を掘り下げていきたいと思います。そこで出てくるのがこの「慈悲深いミソジニー(benevolent misogyny)」という概念です。これはフェミニズム批判がよく陥りがちなパラドックスであり、強者男性のミソジニーがなぜ「レベルが低い」のかを示すものでもあります。

この概念については、上記事では「慈悲的差別」と訳されたうえで、詳しく説明されています。ただしこの記事は若干フェミニズム(我々の言う「エリートフェミニズム」)寄りで、女性の地位向上を阻害する要因であるという所に論点が置かれています。

男が女を守る、施すという行為は、それがジェンダーロールを強化するものであっても問題視されない傾向にある。実際、甘やかされ過小評価されていると自覚していてもそのような男性を好む。慈悲的差別に反対する人でも「男女平等なら男女同責であるべきだ」的な規範論や精神論に近いものを論う人が多く、有害だとは見なされていない。
しかし、これは大きな間違いである。慈悲的差別概念の提唱者のGlickとFiskeによれば、慈悲的差別は家父長制・ジェンダーロールを支持する差別構造の一側面である。筆者も近年、慈悲的差別が性役割分業を強化する役割を果たし、医学部の女子差別などの直接的原因となり、究極的には男女間の所得格差の大きな原因ですらあると理解するようになった。

しかし「慈悲深いミソジニー」に起因する問題は、マスキュリズムのほうにこそ暗い影を落としていました。

久米泰介『これからの戦略と展開』より

保守派(性役割保守派)というのはそもそも女性中心主義(ガイノセントリズム)である点ではフェミニズムと変わらず、本質的に女に甘く弱いため、永遠にフェミニズムと本気で戦わない。フェミニズムとジェンダーロール保守派は一見対立しているように見えて、どちらも実は女のことしか考えておらず、男性の人権は一切みないという点では一緒である。
だから、昔の形に戻せという流れになるのがマスキュリズムも警戒している。それは元の木阿弥であり、マトリアキー的な権力と男性差別も残ってしまう。
警戒すべきことは少子化対策を名目に男女両者が納めている税金がリプロダクティブライツが男性が弱いために、いや独占されているために少子化対策=女性支援にすり替えられ女性に女性が権力と富を得るかたちで税金を使われることだ。貧しくて結婚したくても結婚できない男性に福祉支援が使われるのではなく。
そういう意味ではフェミニズムの政策よりは保守派の伝統的性役割の政策の方が、短期的には男性には良く思えるだろう。しかしそれは、男性が5:95で不利な社会を30:70に戻すというだけでしかない。あくまでも50:50の社会は未来にしかなく過去にはない。
そして仮に過去に一時的に戻ったとしても女の被害者として、被保護者としての特権的地位がある限りまたフェミニズムに好き放題やられるし、そもそも保守派はフェミニズムを止められない。常に負けているイメージしかない。なぜなら保守派も実際は女に甘いので、決定的な攻撃打を与えられないからだ。
女と対等に戦えるのはマスキュリズムだけだ。

我々はジェンダー保守主義的なフェミニズム批判、すなわち今までのようなエリートばかり批判していたフェミニズム批判を「女に甘く弱いもの」と見なしています。それは彼らの批判が典型的な「慈悲深いミソジニー」に基づくものであるからです。

彼らは基本的に、フェミニズムは、女性の地位向上によって家族観を解体し、若者の非婚化と少子化を進め、将来的には社会を滅ぼす思想であるという観点から批判してきました。決して自分たちの権利のためではなかったのです。その一方で、自分たちの地位を脅かさないという確約があれば、女からの主張に積極的に反対してきませんでした。例えば彼らは、「デートの費用は全額男が払うべき」という女からの主張に反対したでしょうか。むしろ積極的に支持していましたよね。

「妻や娘のため」にフェミニストを名乗る?

ツイフェミのことを知っている方々には当たり前の話かもしれませんが、フェミニストを名乗る男性には「自分の妻と娘を守るためにフェミニストになった」と自己紹介する人が一定数います。単に自分たちがモテなくなったという理由でフェミニズムを敵視しているような人でも、いざ女が配られるとこういう形で「フェミニスト」に転向してしまう人は多くいます。

大抵の場合、彼らの言う「フェミニズム」はエリートフェミニズムを指しません。彼らの成り立ちはエリートフェミニズムだけがフェミニズムではないことを悟ったか、妻を得たことによって草の根フェミニズムに強制的に参加させられたかのどちらかです。

ただどちらにせよ、結局は彼らも「慈悲深いミソジニー」の下で女を守っているにすぎません。

こんな「アンチフェミ論客」は信じるな

ですから、フェミニズムを批判する言説でも、我々にとって全く信用できないものがあります。それはずばり

「フェミニズムは女性のためにもならない・ならなかった」

という主張を含むものです。今でもエリートばかり追及するフェミニズム批判にはこういうロジックを援用しているものが多く残っています。

これではまるで「女の幸福のためにフェミニズムに反対している」ようなものです。決して自分たちのためとは思えない。「妻や娘を守るためにフェミニストを名乗る輩」と何が違うのでしょうか?まさにこれこそが「フェミニズム批判がよく陥りがちなパラドックス」なのです。

特に今年中には必ず「衆院選」というものがありますので、以下に掲げた記事の内容を念頭に置いておかなければなりません。選択的夫婦別姓のような「話題になっているフェミニズム政策へのスタンス」だけで候補を見てはいけないのです。場合によっては、「エリートフェミニズム」の流れを汲むような候補に入れたほうがいいかもしれません(この見極めも結構難しいものではありますが)。

現在でも反フェミニズム寄りの政治家は2000年代とほとんど面子が変わっていません。すなわち未だに家族の解体という視点からフェミニズムを批判しているに過ぎないと思われます。逆に言えば家族の解体に関係がないところについては、彼らも妥協を見せてしまう恐れがあるのです(というか、すでに児童ポルノ法や女性専用車両の推進などで実際に起きています)。すなわち、家族の解体以外の方面からのフェミニズム批判者を政界に確保することはマスキュリズムとしても中期的目標に据えなければならないことであると思います。まあ実際のところ、それは「第3の性からのフェミニズム批判」が先行して実現することになるとは思いますが。
昨年の末、第5次男女共同参画基本計画が閣議決定されました。反フェミニズム寄りであるとされる政治家たちは「選択的夫婦別姓」には抵抗したとされますが、それ以外の政策ではどの報道にも指摘がないことから原案のまま通したと思われます。まだまだ家族の解体に関わらないイシューへの彼らの関心は薄いわけです。いやむしろ、フェミニズム以前の性意識のほうが、女にとって安全かつ幸福に生きられると彼らが考えていたからこそ、彼らは一部のフェミニズム政策にのみ反対していたわけです。その意味で言えば、彼らこそこれから「フェミニスト」に転向してしまう可能性が高いといえます。

強者男性のやっていることは「飴と鞭」

ここからは「森発言」について振り返ってみましょう。この発言のどこが女性蔑視なのか分からない、むしろ女性の委員を称えているじゃないかという声は多いですが、「慈悲深いミソジニー」を念頭に置けば、浮かび上がってくるものがあるのではないでしょうか。

これはテレビがあるからやりにくいんだが、「女性理事を4割」というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらい…今5人か、5人います。女性っていうのは、優れているところですが、競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。
あまり言うと新聞に書かれて、俺がまた悪口言ったとなるけど、結局女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

これは要約すると、「女性理事の話は長いと各理事会から言われているから、発言の時間を短くしたほうが(論点を集約したほうが)全体的に印象が良くなる」と言っているように思えます。慈悲深いですねぇ。

これはフェミニズム側から見れば「発言の時間を短くするよう圧力をかけた」ことになるのでしょうが、組織委員会の女性委員には「わきまえておられます(=あなたがたはそうではない)」と言っているあたり、飴と鞭の関係なのかなと思います。まあこれが、典型的な「慈悲深いミソジニー」に必要とされるものなのですが。

「妻や娘を守るためにフェミニストを名乗っている男」も似たようなものであり、妻や娘が俺のものとなっている(あるいは逆らわない)限りはその権利を守ってやろう、という理屈なのでしょう(もちろん逆に、妻や娘に逃げられないように「守らされて」いることも否定できませんが)。

でも、(特に表現の自由界隈出身者なら分かるでしょうが)「権利を守る」ってそういうことではありません。特に我々は男性の人権確保を目標にしている関係上、その理屈のおかしいところはすぐにわかります。彼らは「(憲法改正論議でも大きな争点になった)国賦人権論」を嗤える立場にはないといえます。