家父長制は、双方の知らない所で「女に都合のいい形」にアップデートされている
※ここで「双方」とは、(第4波フェミニズムが台頭する直前までの期間に)政治的に力を発揮したフェミニスト・アンチフェミ双方のことを指します。
「お小遣い制」という経済DV
大谷翔平選手の専属通訳であった、水原一平氏の賭博問題は、思わぬ方向の界隈にも飛び火したようです。
この「お小遣い制(広義には、家庭の財産管理権が一方的に妻にある状態を指す)」の問題は、「主流言説」に登ることはなかなかなかったものの、草の根の反フェミニズム・マスキュリズムではかねてから活発な議論が存在し、様々な意見が現れては消えを繰り返していたものです。
この家庭慣習は東アジア(実質的には日韓二か国。中華圏にもないらしい。確か中国語メディアでも「日本人女性と結婚する場合は、実質的な財産権を取られてしまうことに要注意」と報じられたことがあった)に特有のもので、逆に欧米では女性に財産権がなかったからこそ女性の社会進出が栄えたとも言われています。
つい先日(上記のツイートポストのあった日基準)には小山狂人がこのように述べたばかり。そこで今回は、その「お小遣い制」という慣習の背景について迫っていきたいと思います。
…といっても私の手元にはそんなに詳しい資料なりデータなりがあるわけではありません。しかしこのことを語る上で、欠かせない事項があることは確かです。
「家庭への対案」とセットだった日本の女性活躍政策
まず明確にさせておきたいのは、「家の財産は妻が管理する」ことが伝統的な日本の家庭慣習であったわけではないということです。
明治民法のこの規定は「妻の無能力」と呼ばれ、この規定によって財産管理権は夫にあるものと解釈されていました。その後、規定は戦後の現行憲法施行に合わせて撤廃されました。つまり、「家の財産は妻が管理するという慣習」は、少なくともその撤廃以降に興ったものと言えるわけです。
前項でも触れたように、欧米では(そして当然、中華圏でも)「妻に財産権がないこと」は女性の自立・社会進出、そして最終的には婚外子増加の大きなインセンティブになっていました。つまり、一つ考えられるのは、そもそも「妻が管理するという慣習」自体、「社会進出」を抑止するために行われた、あるいは「社会進出に対する対案」そのものだったのではないか、ということです。
こうした「家庭への対案」は、戦後日本の女性政策を見ていくと、意外に様々なところにあります。特にあからさまな例として挙げられるのは、1985年の男女雇用機会均等法成立と同時に、専業主婦の年金権を確立した第3号被保険者制度も成立したことです。
この二つはどちらもフェミニズム側の議論ですが、やはり「家庭に入ることを選ぶ女性」の無視できないほどの多さを窺わせます。
これを長期的な視点で見てみると、結局「女は家庭に入るべき」という立場のアンチフェミニストもその「家庭に入るインセンティブ」を強化せざるを得なかった、ということは言えるでしょう。
それが加速すればするほど、当然ジェンダーロールも「女の都合のいいように」ゆがめられていきます。その行き着く先は、いわゆる「全ての女性がお姫様扱いされる社会」です。
彼らがそこまでして「伝統的性観念」にこだわる理由
「女は家庭に入るべき」系アンチフェミニスト、すなわち伝統主義的アンチフェミニストが、このことを狙っていたかはさすがに私が知る由もないですが、まあそこまで考えていたとは思えません。
その意味で、伝統主義の性観念は「双方の知らないところで、女の都合いいようにアップデートされてきた」と言えるのかもしれません。もちろん、日本のフェミニズムには大きく二つの潮流があり、そのうち戦後の第2波〜第3波で主流になれなかったほうの勢力が、密かに進めていた所もあるのでしょうが。
しかし、そこまでして「伝統的性観念・家族観」にこだわる必要があったのか、とも思うところです。まあもちろん、それが「必要とされていた」理由は、私の記事を昔から読んでいる皆さんなら、すぐに分かると思いますけどね。
そう、「伝統的性観念・家族観」を維持しなければ、加速度的に非婚化・少子化が進むとされていたからです。その流れを止めるためには、「性の開放」以前のセクシャリティを取り戻すしかないとされていたからです。
今でこそ小山狂人もこのようなことを言い出しましたけど、彼だって数年前は伝統主義の理屈について理解を示していました。
非婚少子化・人口減少というイシューは、そのくらいまで反フェミニズムを「一枚岩」にさせていたのです。たとえそれが「別のフェミニズム運動」をエンパワーさせることになったとしても。
その根底にあるのは、「次世代再生産は、現状、女の妊娠出産によってでしか出来ない」という厳然たる事実です。この事実の下では、たとえ「お姫様扱い」になってしまったとしても、ジェンダーロールを維持することが、最も効率的に社会を持続させる方法であることは否定できないのです。
そしてこれも究極的には、「フェミニズムのただしさを保証しているのは政治的ただしさではなく、共同体の子産み要員であることそのものだ」ということに収束していきます。
我々「これからの反フェミニズム」が学ぶべき教訓
ここまで解きほぐしていけば、さすがに「取るべき方向性」は皆さんにも自ずと見えてくるとは思います。
そう、「女の妊娠」を介さずに次世代再生産できることを目指さなければなりません。しかし、なかなかこれまでその発想が出てくることは、オピニオンリーダーから草の根に至るまで、ほとんどありませんでした。
繰り返しますが、やはり問題の根源は「次世代再生産の手段が女の妊娠を経るという一択であること」にあります。この事実が覆されない限り、伝統主義アンチフェミは「解放」を上回るインセンティブを女に対して提示しなければならない弱腰の対応しかできませんし、「出産は男の労働で言う“命がけ”以上に命がけだ」とか「女は男社会の陰謀によって抑圧されている」という言説も真実として扱われるのです。
「選択肢を増やすこと」に根本から対抗できる手段は、こちらも「選択肢を増やすこと」だけだ
これは真面目に、「これからのミソジニー」・「これからのアンチフェミニズム」の合言葉にしていきたい一文です。