伝われば何でも良いのか
伝われば何でも良いのか、それとも伝え方にまでこだわった方が良いのか、というのは人によって様々です。
人によって好みが違うと言っても良いかもしれません。
もちろん、この話は伝えることに限った話ではありません。
結果が大切なのか、それとも、プロセスが大切なのかという話です。結論としては、どちらも大切です。どちらも完璧であれば、誰も文句を言うことができないはずです。
しかし、どちらかしか追い求めることができなかったり、そもそも、どちらかしか追い求めなかったりする人がいるというのも事実です。
そのため、結果、または、プロセスという話になってしまうのです。基本的には、orではなく、andの方が良いはずです。結果もプロセスも完璧な方が、良いということです。
その上で、どちらかしか選べないときには、どちらを選ぶのかということを考えなければいけません。
伝えることに関して掘り下げていくと、伝えることが目的なので、伝わっているかどうかということが判断基準となるはずです。そのため、優先順位としては、プロセスよりも結果の方が大切なはずです。
これは、全てにおいて言えることですが、プロセスよりも結果が大切と言うのは、目的ありきで話が進むときの考え方です。
そのため、目的が結果にあるのであれば、当然、結果の優先順位が上がるということです。
ここからが分かりにくくなるというよりも、混乱してしまいがちになってしまう部分なのですが、伝えるためには、分かりやすい方が良いとか、伝えられる側のことを考えた方が良いという発想が生まれます。
これは正しい発想です。
伝えるということは、例えば、学校授業などをイメージすると分かりやすいかもしれません。学校の授業などは、先生が知識を伝える場所というのが一般的な考え方です。
先生が知識を伝える立場ということは、生徒は知識を伝えられる立場にあります。そのため、生徒に知識が伝わっているかどうかというのが基準になります。
先生は分かりやすい授業をするとか、魅力的な授業をするというのは、生徒に知識を伝えるための手段だということです。
授業が終わった後に、生徒に知識が伝わっていないのであれば、その授業の価値というのは無かったと言っても過言ではありません。
そのため、どれだけ分かりやすい授業をするか、魅力的な授業をするかということに、先生はエネルギーを注ぐのです。
ただ、そのエネルギーを注ぐということが、授業をするということに対して注いでしまうというのが問題です。
授業という手段を用いて、先生は生徒に知識を伝えます。そのため、授業をいくら改善したところで、生徒に知識が伝わっていなければ意味がありません。
また、すでに十分な授業をしているにもかかわらず、さらに授業を改善しようとするのは、考え方としてはすばらしいことですが、ある種のムダと言っても過言ではありません。
この考え方が偏っているというのは自覚しています。
ただ、手段を目的にしてしまう人があまりにも多いと感じるため、この部分は強い言葉になったとしても切り分けておいた方が良いと感じています。
手段を目的にしてしまう人の特徴としては、こだわりが強いとか、正義感が強い人に多い傾向があると思います。
こだわりが強いとか、正義感が強いというのは、悪いことではありません。しかし、手段と目的について考えるときには、こだわりや正義感というのは切り離して考えた方が良いと感じます。
考えなければいけないのは、目的を達成することであって、手段を改善することではありません。あくまで目指すべき目標地点というゴールがあって、そのゴールにたどり着くために、どのようにすればよいのかということを逆算すれば良いと考えています。
そのため、手段にこだわり過ぎるというのは正しくないと感じます。
この価値観は、結果とプロセスのどちらを優先するかということにも全く同じようにあてはまります。
もう少し細かい話にしていくと、物事を伝える手段として、人は言葉を使います。いまのところ、言葉というのが最も合理的に物事を伝える手段だと言えます。
言葉を節約することが良いのか悪いのかということを考えたときに、いかに分かりやすく、適切に物事を伝えるのかを考えると、言葉を節約しては意味がありません。
言葉、すなわち文章で伝えることになるため、文章を推敲すること自体には意味があると思います。
推敲されていない文章は、主語と述語の関係がおかしかったり、「てにをは」がズレていたりするため、とても読み取りにくいのです。
そのため、文章で伝えるときには、言葉を尽くして、できる限り分かりやすい言葉で伝えることが必要だと言われています。
短縮や省略をしてしまうというのは、お互いに、その共通認識があれば良いですが、その共通認識が無いまま、その言葉を使ってしまうと、コミュニケーションがかみ合いません。
ただ、気を付けておかなければいけないのは、余計なことを口にしないことです。また、無駄口を叩かないことです。
口はわざわいの元というのは、古くから言われていることです。余計なことを言ってしまって、関係性が壊れてしまうこともあります。
また、言葉を尽くした方が良いからと言って、同じことを何回も言っているのであれば、相手は言葉を聞いてくれなくなります。また同じことを言っていると錯覚して、言葉を聞き流してしまうのです。
シンプルに頭が良い人というのは、相手との関係性や前提条件を適切に理解して、適切な言葉を最小限に使うことで、自分の伝えたいことを伝えることができます。
そして、相手との共通認識を作ることができるのです。
この能力というのは、時と場合や、相手によって大きく変わってきます。そのため、その能力を身に着けることができるというのは、生きていく上で大きなアドバンテージになると言えます。
その能力を身に着けるために必要なのは、とにもかくにも、相手の立場で考えるということなのですが、さらに加えて、伝えたいことの物事についても深く知っておかなければいけません。
自分の言いたいことだけを言っていては、絶対に伝わらないか、相手がそのような人だと思って接してくれなければいけません。要するに相手に甘えてしまっているということです。
そこも含めて、相手との関係性と割り切ってしまうこともできます。自分の言いたいことを相手が忖度してくれて、自分が言葉を尽くさなくても、自分が言葉を選ばなくても、言いたいことが伝わるという状況を作るということです。
その状況を作ることができるのであれば、それで十分です。
ただ、個人的にその状況を作ることだけでなく、そのような状況というのは居心地があまり良くないと感じます。
自分にとって甘い状況を作っていると感じるからです。
厳しい環境に身を置きたいということではありませんが、言葉を使うことができるのであれば、できる限り適切な言葉を使えるようになりたいと感じることは多いです。
そのため、物事を伝えるときには、できる限り適切に伝える、何度も伝えるということを考えたいと思います。また、伝えたことに対して、相手は後から疑問が湧き出てくることもあります。
そのようなときは、後から疑問をぶつけてくれるような関係性を作らなければいけません。結論としては、伝われば何でも良いけれども、そのためには関係性が必要で、それに加えて言葉を使うための努力を止めてはいけないということです。
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