「ほしい」と思う心の所在

 あなたは自分の「ほしいもの」や「すきなもの」は何かと聞かれたら、すぐに答えられるか?私はNo、見習いの身である。

 子供の頃は我慢我慢の連続で、我慢が世のため人のためと思っていた。だから自分がほしいものが分からないし、分からないから言語化なんてもってのほか。でも潜在的には知っているから、他人(主に夫)には察してほしい、むしろ察してもらうしかないしとふんずりかえる図々しいオバハンが私である。一番嫌われたくない筈なのに、結果的に一番嫌われるようなのとをやっていう矛盾だらけの態度。ちなみに外ではこんな人間であることを微塵にも出さないという徹底ぶり。つまり、私はまあまあ最低な人間ということである。

 最近私は「ほしいもの」を「ほしい」と思っている瞬間をキャッチする術を知った。それは、「どうせ手に入らないんだから、もういいよ」「やっぱいらない」と諦めのちゃぶ台返しをしようとするその瞬間だ。その時は本当に「いらない」と思うのだ。しかし諦めた後は八つ当たりという夫サンドバッグ化現象を起こしてしまう。つまり、私は「諦めたグセ」が日常化しているのだ。

 「ほしいもの」それは物理的なものだけだと思っていないか。今日はインド料理のビリヤニを食べに行った。食べ終わってもなかなか食後のマサラティが出てこない。忙しいんだろうか、きっと忙しいのかも。皿を下げに来たときに気づくかもと、もやもやしながら待つのが常の私。もし、遅れて持ってきた店員が「お待たせしました」の一言もなければ夫の運命は…。しかし、今日の私は違った。「すみません」と声をかけ、アピールした。だって「今の私がほしい」からだ。店員さんはハッと気づいて私が何かを言う前にさっと持ってきてくれた。その時の心が満たされる感じがした。私が私のために「ちゃんと声をかけてくれた」からである。

 「ほしいもの」は日常に埋もれている。日常という砂に埋もれまくっている。手に入るかどうかもだけど、「ほしい」という気持ちを見過ごしては絶対いけない。例え今この瞬間現実化させるのが困難なら「ほしい気持ち」の存在だけは認めてあげることが必要だと思う。