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朝食用にカレー作り

最近は手抜き料理が多くなり、月に1回はカレーになる。残り物の処理に都合が良いし、とりあえずカレーで、5回か6回分は手抜きになる。

カレー作りと言えば、どうしても懐かしいCM ソングを思い出す。

昭和30年か、もう少し後かな、選挙の遊説カーのように後部が舞台になってる大きな車が来て。この曲が流れ始めた。

子供達を始め大人も何事かと集まると、キュロットスカートにテンガロンハットの女性が、後部舞台でこのカレーの歌を歌い始めた。それはその姿と車と曲が鮮烈な記憶として残った。

父の乗っていた自動車は、自転車のようなハンドルの「オート三輪」と呼ばれていた自動車だった。舞台付きの自動車が珍しかった。

我が街は戦争の被災もなく、市の産業も打撃を受けて無く、朝鮮戦争特需を受けて裕福で有ったと思う。それでも女性の姿は和服が多く、母の普段着も着物であった。着物に割烹着が普通であったし、街をおしゃれして歩くスカート丈は長かった。

歌と言えば、小学校の校庭で白い幕を張り、夜に小鳩くるみという小1くらいの小さな女の子が唄ったのを見たくらいの記憶しか無い。まだ白黒TVも一般に普及して無かった。

そんな時代に見た宣伝カーは、ある意味ショックを受けたものだ。歌が終わるとカレーが配られ、たぶんどこの家庭でも作ったと思う。あの時のカレーが、人生で初めてのカレーだった。子供がカレー好きになったのは、あの頃からかもしれない。

まだ専業主婦の時代だが、洗濯機も普及して無くて、掃除機もない、一日中動き通していた主婦にとって、カレーは相当な手抜き料理としてありがたい存在だったろう。それから数年して、お湯をかけるだけの「チキンラーメン」が発売され、直ぐ後には鍋で煮て作る「かやく入り即席麺」が発売された。

チキンラーメンが発売された頃、レスリングの時間になると、TVを持っていた我が家に近所の人達が集まり、子供は銭湯に行かされた。銭湯の2階の休憩室では子供が集まり、「白馬童子」や「少年ジェット」「怪傑ハリマオ」を見ていた。

チキンラーメンが発売される頃になると、カレーは何処の家でも作られるようになった。たぶん、誰もがオリエンタルカレーの、あの曲が頭に浮かんでいたかもしれない。カレーが食べたくなると、母の所で「なつかし~なつかしぃ~」などと歌ったものだ。

もっとも、即席のカレールウといえば、SBカレーしかなかったと思う。カレーの普及に尽くしたのに、発売されていなかったとは。もっとも我が家ではカレーを作ることは少なくて、野菜の漬け物と煮物、煮るか焼くかした魚、いわゆる一汁三菜がキチンと守られていた。

カレーを作ると、何故か懐かしい歌が浮かんでしまう。

20秒後の宣伝カーだったかもしれない。
どうでも良いことだけど。

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