なかまはずれ

「友だちとは仲良く」
むかし、昔から言われる
でも「この人とは仲良くなれない」大人がそう思うように子どもだって「この子はいやだ」という感情がある。

子どもの「いやだ」に
「どうして?」とたずねると
「だって、あの子が入るとおもしろくなくなる。ルールが勝手に変わる。そうすると今まで遊んでいた友だちも抜ける」

(なるほど)

そう言う、その子も時に乱し、ルールを勝手に変えて周りの気分を害することがある。

自分のことは棚に上げて

それはわがまま

かもしれない。

だから「今、していることを自分がされる。それは嬉しいことか、嫌なことか想像してみて」とまでは話す。
答えは「嫌なことだし悪いこと」
「だったら入れてあげてみよう。それでも、やっぱり喧嘩になりそうだったり仲良く遊べなさそうなときは近くにいるから相談してね」
と。

そう話した。

でも「誰とでも仲良く」できない現実はある
「『嫌だ』という気もち。」分からなくもない
「相手の気もちを思いやり、自分だったらと『優しさ』をもつことは容易くない」


私が子どもだった頃
同じように「あの子とあそぶと毎回喧嘩になる」ならば、それでもあそびに入れたかもしれない。でも、それまで仲良くあそんでいた友だちまでも「あの子とあそぶと喧嘩になるし嫌だ」となったらどうしただろうか。

仲間はずれは
いじめの入り口になる

でも、子どもに「仲間」の意識がない
「あの子」は「友だち」じゃない

それでも「仲良くあそんで」と「頼む」のは「強制」かもしれないと

子どもでなく、一人の人間と考えると
そう思った。

「嫌」なことを「断る」その選択が「正しい」わけではない。
では「無理をして『仲良く』あそぶ」ことは「正しい」のか?

傷を負うのは誰?
我慢しないといけない?

「あの子」をかばっても、「あの子」は救えない。
「あの子」は、きっと自分の意思や「一緒にあそびたい」の思いを「友だち」に歩み寄る、そんな工夫を自ら見出さないといけない。
それは教えて分かることではなく、「あの子」が自ら「気づく」ことだ。

「気づく」ことの答えが「仲間はずれ」だと感じることがあったら相談してほしい。
せめて「仲間はずれ」と感じている。そのシグナルを受け止めたい。

いずれにしても

所詮、他人の人生。

それは例え子どもであっても。

「成長」「葛藤」「自立」「失敗」「後悔」「反省」「転換」「改善」「人間関係」

教科書で学ばない多くに
社会での基盤を垣間見る。

「みんな、仲良く」
おとぎ話だと「現実」を見たような数日だった。

「なかまはずれ」をしない。

本当に「正しい」?



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