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療育を受ける子の親を助けてほしい。

療育を受けている子どもの母として、ちょっともうほんと、嫌になってきた。たかが1年と少し程度で嫌だとかなんだとか言ってられる世界じゃないのはわかってるし、今後もずっと続くことなので、どうしようもないのはわかってる。けど吐き出さなきゃもうやってられない。泣いて一晩寝ればスッキリするタイプだけど、今は毒がたまりすぎている。感情のごみ箱として、今日の記事を書く。

今日、子どもの保育園を休ませた。行渋りがあったからだ。それで、原則的に保育園を休んだら療育を利用できないと言われているので、療育にも連絡をした。そうしたら、「それはあまり良い行動ではなかった」と言われた。子どもへの対応に一貫性をもたせるために、「行くと決めたなら」「お母さんが仕事だからと言ったなら、それを変えない方がいい」「彼は賢く記憶力がいいから、今後成長したときに"あの時はこうだった"と逆手にとってくる可能性がある、それは防いだほうがいい」その通りだと思う。先生は息子をよく見てくれているし、理解もしてくださっている。わかる。本当に、痛いほどわかる。

でも私の感情としては、自分の判断を否定されたという感情しか残っていない。息子に接する療育の先生としては信頼している。でも、私のつらさは理解してもらえないんだなとただただつらい。怒られたという気持ちしかない。
息子は以前数か月にわたって不登園だった。そこを昼まで、おやつまでと徐々にのばしてきた。時間が短くなろうがなんだろうが、「保育園に行く」というリズムだけは死守したくて必死に守ってきた。それでもここ一ヶ月、「保育園に行きたくない」と幾たびも口にし、「明日保育園ある?」と不安げに聞き、妙に甘えたり、構ってほしかったり、いつもしないような大きな声や行動があって、何かしら彼がいつもと違うという様子があって、そのうえで今日は「休んでいいよ」という判断をしたのだ。苦渋の決断だったのだ。それを「良くなかったですね」の一言でまとめないでほしかった。療育的な考えと、毎日見る子どもの様子からくる考えのせめぎ合いの上で、朝の限られた時間の中で、「休んでいいよ」と言った決断のその苦しみを少しでいいからわかってほしかった。一言、「お母さん大変でしたね。」と言ってくれればそれでよかった。

受給者証の更新作業も本当に嫌だ。行政が療育にかかる費用を負担してくれているので、その必要性を証明する必要があることは重々に承知している。でも、我が子のできないことや苦手なことをあげつらう作業は本当につらい。親なら誰しも愛する子どもの良いところを見つけてやりたいものじゃないのか。これまで読んだ本も偉い先生のyoutubeもみんな「自己肯定感を高めましょう」「褒めましょう」そういうじゃないか。なのに、あれができないこれができないとチェックをつけさせられ、「困っていること」「どういう風になってほしいか」を欠かされる。困っているのは私じゃなくて本人だし、どうなってほしいか?健康で元気に健やかに生きていってほしい、ただそれだけだ。客観的に評価したいのなら、客観的に評価できる人や機関がすればいい。療育に通っている子どもなら、療育の先生が書くことだってできるはず。それにきちんと点数をつけて、療育の先生の業務として事業所の収入になる仕組みにすればそれで済む話じゃないか。それを何故わざわざ親に子どものできないこと、苦手なことを書かせたがるのか。この書類作った人は我が子についてこのチェックリストをつける親の気持ちを考えたことはないんだろうと絶望感がすごい。

そもそも、療育に行ってるだけで結構大変なのだ。保育園には迷惑をかけていないか、園での様子はどうか、他のお子さんへ悪影響がないかと常に不安がある。先生たちは「仕事ですから」と言ってくれているけれど、うちの子だけのための先生、保育園ではない。「またあの子か」「あそこの親めんどくさい」「過保護」と思われているんじゃないかと疑心暗鬼になる。
正直、今はもう保育園も療育も全部切ってどこかへ逃亡して息子とふたりで暮らしていきたいくらいすべてが嫌だ。もう誰も何も知らない土地で暮らしたい。でもそれで私が死んだら息子は生きていけない。彼の凸凹をうまくカバーする方法や、能力や、そういうものをつけさせなきゃいけないから、やっぱり集団からも療育からも逃げずにお願いするしかない。

行き渋り、不登園、発達凸凹の親として毎日毎秒常に判断を迫られている。一貫性、自己肯定感、安心感、それと同時に、イレギュラーや、思い通りにいかないこともあるというストレスにも慣らしていかなければならない。それを常時考えて取り組んでいるこの親のストレスをケアしてほしい。

私、本当に一生懸命やってるんです。保育園行けなくなって、自分の仕事なくなるかもしれないって思ったけど息子につきっきりで一緒にいたんです。保育園とも療育とも連絡を取り合って橋渡しをして、息子がまた行けるようできる限りを尽くした。自分ができる限界までやった。これ以上は無理っていうところまでやった。街中で1時間号泣をなだめすかしたこともある。それはおそらく、療育的には理想的だったと思う。一貫性があって、安心を与えられたとおもう。息子にとっては、よかったとおもう。
でもそのケアをした私は?親は?子どもであるが故に、ひとりで置いておくこともできない。仕事のように時間がきたらサヨウナラもできない。リフレッシュや気分の切替と言ったって、常に視界に入れていなければいけないし、幼児ゆえに親にまとわりついてくる。本質的に離れることなど不可能だ。保育園や療育との連携だって、話の場に出るのは主たる保護者の私だけ。電話は1対1だから、それだって結局私だけ。夫に情報を共有するためにまとめたり整理したり、それに対する質問に対応するのも私。全部私。仕方がないのはわかってる。誰かがやらなきゃいけない。担当が分散すると対応もまばらになりがちなので、誰かを担当にする方が望ましい。それはもちろん理解する。でも本当に、自分の子をいつだって冷静にAさんとして見ることは難しいのだ。そこにはいつも感情がのってくる。常に正しいか正しくないかだけで判断はできない。この苦しさをわかってほしい。

親の感情と、実際子にどう対応していくかは当然分けて考えていくべきだとおもう。
今日のケースでいえば、「保育園に行きたくない」という訴えに対して、感情としては「休ませてやりたい」。けれど、実際には「行きたくないんだね。でも〇〇だから、行ってほしい。お昼ごはんまででもいいし、それが嫌ならお昼ごはんの前でもいいよ。」と対応すべきだった。
でもこの判断ができる冷静さと余裕が今朝の私にはなかった。いつだって余裕があるわけじゃない。ここ一ヶ月は息子の不安定さと共に、私だって不安定だ。先週からは制度上の色々があって何度も心が折れてでも息子のためにとなんとか立ち直って色々動いた分、疲労感もすごい。そういう背景があっての今日の判断で、それを一刀両断されたら、それは正しいけど、母親としてはもう立つ瀬もないし頼る先もない。もう心が折れたとした言いようがない。

療育を受ける子どもの親をサポートしたり、ケアする制度や機関が欲しい。それがなにでどういうことができるかわからないけど、親は本当に必死で、つらい。このつらさを共有したり、労わったりしてほしい。
ほんとうに、がんばってるんですよ。初めて親になって、必死に子育てして、凸凹っていうものをどうやってやったらいいかって一生懸命考えて考えて、それでうまくいくこともいかないこともあって、それをただ誰かに認めてほしい。色んな本に書いてある、「まずは子どもの気持ちを受け止めましょう」「努力の成果ではなく過程を褒めましょう」それって大人もそうなんじゃないの?ただ一言「大変でしたね。がんばってるね」ってそういってほしいだけなの、ほんとうに。



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